146. 「クライアントとの接待」

投稿者: ゆきお

つまるところは「軽く食事をしながら会話し、ハイヤーに乗って」というところでさえ、ホテルのでの性的な行為に負けず劣らず、その想像が私の心を刺したのには、もう一つの事情もあった。
実際に、より近くでそのイメージを意識せざるを得ないようになってきたのである。

4月になってしばらくして、絵里が、仕事上、小野寺と会食することになったと私に告げたことは、前に述べた。
会食のメンバーは二人ではなく、絵里のほうが絵里と絵里の上司と部下、そして小野寺側が彼とその部下の女性で、5人が出席すると絵里は言った。

その会食の日の朝、絵里は特別にもうそのことには触れず、いつものように — そうしたビジネス上の用事があるときのように — 出勤していった。
「今日、クライアントとの接待だから遅くなるわ。ちゃんと食べてね。」

絵里の様子はいつものようであったが、私の注意力は抗いがたく自動的にどんな小さな変化をも察知しようと発動しだしていた。
化粧が心なしかいつも明るく見えるのは、春になった変化を見落としていただけで、私の考えすぎなのか、それとも、小野寺を意識してのものか。
ベージュのフレアスカートは、時々目にしたものではあるけど、かっちりしたビジネス・スーツにはないフェミニンな空気を装おわせている。
やはりそこに小野寺に対する何かを読み取るべきか。
いや絵里のことだから、ビジネスとしてのTPOや、自分の魅力のもたらす効果を計算してのもののはずで、むしろ普通の接待としてのスタイルと考えるべきだろう…。
いやそれにしても…。
そんな小さなことが私の心にさざ波を立てるようになった。

それでも、4月からは私の仕事も忙しく、夜の時間が絵里との濃密な語りでとられるようになってきたのを、自分のために取り戻すように、ビジネスの座の中に同席する絵里と小野寺のイメージ頭の隅で気にしながらも、仕事に没頭した。

絵里が戻ってきたのは、夜11時を過ぎていた。
通常のビジネスの会食からの帰りにしては遅いといえば遅いが、特別に遅いというわけでもなく、しばしばあることだ。

ただし普段にはないことが一つあった。
そして私はそれを偶然にもすぐに察知することとなった。

仕事の集中力が途切れ、時計を見ると11時を回ったところだった。
そろそろ絵里が帰ってきていい頃だとも思い、仕事に一息入れて、私もゆっくりすることにした。

ウイスキーを片手に、翻訳の企画が別件で動いている本をぱらぱらと見ていた。
このところ4月にしては暖い日が続いていたからなのか、それとも私の中に息づいていた熱気のせいなのか、顔にほてりを感じ、ひんやりした夜の空気が欲しくなった。
表通りに面した仕事部屋の窓を少し開け空気を入れながら、ガラス越しに、向いの公園のすっかり葉だらけになった桜が街頭の光に照らされているのを見ていた。
仕事場の向いが公園になっているのを私はとても気に入っていて、春先や秋の時期に私の好きな瞬間だ。

そのとき、車が停まる気配の音がし、しばらくアイドリングしているかと思うと、ドアの閉まる音がして、走り去るのが聞こえた。
絵里が鍵を開けて帰ってくる音が聞こえたのはそれから1分ほど後だった。

その瞬間、車に乗っていたのが絵里だったと理解した。
公園があるおかげで、このあたりは夜にはわりに静かで、夜中に窓を開けているとハイヒールの音も響くほどだ。
その時は、少なくとも意識の上では、特に絵里の帰る気配を期待して窓を少し開けていたわけでも、特に通りの様子を伺っていたわけではないが、車のエンジンやドアの音が聞こえるくらいなら、絵里のハイヒールの音も聞こえておかしくないと考えると、絵里が車で帰ってきたのは明かだった。

「おかえり。」

「ただいま。」

仕事場からリビングに戻り絵里を迎えた。
それほど酔っているふうではないが、ほどほどにアルコールは入ったときの絵里に特有の明るさがあった。

「楽しかった。」

「楽しいっていうような性質の会じゃないけど、まあまあうまくいった。」

「二次会は行ったの?」

「ちょっとだけね。」

「電車混まなかった?」

「だいじょうぶ。タクシーで帰ってきちゃったの。」

「タクシー?」

「珍しいね。高くなかった?」

「3千円くらい。ちょっとしたけど、明日も早いしなんだか、朝からいろいろあって疲れちゃって…」

「タクシーでメールしてくれればよかったのに。」

「ごめん。ちょっとぼっとしてたし、それに15分くらいで着くと思ったから。」

そういうと、帰りが遅いときいつもするように、化粧を落して寝支度をするためにバスルームへ入っていった。

「タクシーで帰ってきたの?」と言わずに、「電車混まなかった?」という質問が出たのは、言ってみればカマをかけたということになるだろう。
その質問はなぜかとっさに出て、自分でもびっくりした。
無意識下にある自分の猜疑心を意識さることになった。
そのことで逆に罪の意識をちくりと感じた。