197. ナイトキャップ

面倒な仕事を1つこなし、本命の翻訳の仕事の関係の本を拾い読みしながらうつらうつらしだしたところに携帯の着信があった。絵里からだった。時計を見ると11時半。

「もしもし。ゆきおくん。まだ起きてたよね。起こしちゃったらごめん…」
絵里の声は少し上機嫌だった。

「ああ、だいじょうぶ。資料でも読みながら、適当に眠くなったら眠ろうと思ってたたこ」
「無理しないでね」
「うん」
「何かあったの?」
「ううん、何も。寝る前になんとなく声が聴きたくなって」
「珍しいね」
「そうでもないわよ」

絵里が向こう行ってから電話してくるのは初めてだ。2回めのプレイで、私の依頼に応えるためにごたごたあった、あの時の会話を除けば。

電話をしないのは、向こうへ行った時間を切り話しておこうという態度の表れと見ていたし、私もそれを尊重した。
が、確かに今回は違う用事で行っているのだから電話してきてもおかしくない。それに出張の時にかけてくるのは珍しくなかった。

「何を食べたの夕ごはん?」

いつものくったくのない様子だ。
上機嫌なのは酒が少しはいっているように感じられた。

パスタを作って食べたと答え、カルボナーラがうまく行ったというような他愛もない話のあと、こちらから今日は何を食べたのかと聞くと、それには直接答えず、面白いことがあったから明日話すとだけ言った。

小野寺と食事したのではないかと疑ったが、何かこれ以上追求するのはやめたほうがいいような気がして、「へえ、何かな?」とだけ興味を示して、それ以上追求せず、帰ってから話すのを聞くことにした。

会話は絵里の主導権で、ホテルの部屋の様子から、母親から実家のことで電話があったこと、それに関するぐちなどをまじえて進み、こちらは適当に相槌を打ちながら聴くかたちとなった。
なにも今そんな話をしなくてもいいと思いながら、それに付き合ううちにふとした疑問から、芋づる式に大きな疑惑が胸に浮かんできた。

絵里に今日そちらであったことに話題が行かないようにそういう話題を持ち出しているのは自然で間違いないとして、それにしてもわざわざ電話してくる必要はないのではないか。
絵里は今ほんとうに一人なのだろうか。
小野寺と一緒なのではないか。
それを糊塗するため、わざわざ、一人ということをアピールするアリバイ作りに電話してるのではないのか。

疑ってみると向こう側に知らない男の息遣いまで感じ取られる気分になってきた。

その疑問から相槌も上の空になるうちに、「そろそろ眠くなってきたから寝るね。じゃあ、明日。おやすみ」という朗らかな声で電話の会話に終了がもたらされた。

電話が終わり、一人の静寂の中で、疑いがドンドンと膨らんできた。
部屋で絵里と小野寺とお酒を飲みながら会話しているシーン。
さっきのあのほがらかな調子で会話に興じている。
どちらからともなく手が伸び、二人は抱き合う。
脱がされる服。口づけ。乳房に、下腹部に伸びる手…
いやもう裸だったのではないか。
小野寺の膝の上で電話を持つ絵里。
男が息をひそめるように電話の耳元に顔を近づけている。
電話のあと状況に燃え上がる二人のセックス。
打ち消すたびに、情景のヴァリエーションがどんどん浮かんでくる。

一度セックスしたあと、寝物語のうちに、小野寺のサディスティクな遊び心で、絵里に電話させてみるということになったのでは。
絵里はすぐにそれに乗ったのか、それとも、抵抗を示しながら、結局ゲームに乗ることに従ったのか。
その刺激でまたいっそうに情熱的になるセックス…

根拠がないと分かっていても、妄想がどんどんと一人歩きしていき、もう揺ぎない現実のように思われていく。

しばらく我慢していたが、限界に達したように携帯から折り返し発信をした。
絵里がそれに出てまた話せばその妄想は止められる。
いや、しあし、そんな状況で絵里が電話に出て話すことになったら…。
呼び出し音がスタートした時点で、そんな考えがとっさに交錯し、電話したことを後悔さえしたが、すぐに切るのもおかしいし、成行にまかせることした。

呼び出し音が鳴り続ける。
7回、8回、9回…
絵里が部屋に一人でいてさっきまで電話をしていたという健全な現実を想定すれば、手元の携帯ですぐ出られるはずで、やはりそれを一番期待していたので、肩すかしとなり、そして疑惑のほうが勝ってきた。

呼び出し音はついに、メッセージを残してほしいとの不在のアナウンスになった。
何も残さずに切った。

あの後部屋から出て行ったのだろうか?
いや電話機がそこにありながら、もう出られない状況にいるのだろうか。

妄想が止まらない
もう一度電話した。
呼び出し音が続くごとに、胸の鼓動が高まっていく。
やはり不在のアナウンスだった。
5分後に3回目の電話。
不在。

もしかしてバスルームにいる可能性もある。
15分我慢して4回目のコール。
やはり出なかった。

12時半になっていた。
5回目のコールをなんとか思いとどまった。

何らかの都合で単に出られないのであるとすれば後から見て私の行為は常軌を逸したものになる。
そう見られるのは避けたかった。

一方、二人の間に何か性的な行為が営なまれているとしたら、私のこの連続のコールは、絵里にとって怯えや背徳の意識を呼ぶものとしても、小野寺にとってはサディスティックな満足を与えるものとなるだろう。
もう二人が十分に共犯関係にあるなら、その私の惨めな行為を、可笑しがりながら刺激とすることさえできるのかも知れない…。

妄想が妄想を呼び、電話する前よりも酷くなってきた。

一旦それを断ち切らねば。
ダイニングに行き、ロック用のグラスに冷蔵庫から取り出して氷を入れ、ナイトキャップのウィスキーを多めにつぎ、ソファーに座って呑んだ。
ベッドルームに行く勇気がなかった。

唇に直接あたり刺すよう氷の冷さ、口の中を、喉を、胸を焼く、まだほとんどストレートのウィスキー。
対照的なその刺激に身をまかせる。
アルコールが妄想を洗い流すように下りていき、胸を焼きながらそこにわだかまっているものを、じんわりと身体全体に溶かして行く。
その感覚に集中しながら、何かの作業を勤勉に続けるように、ゆっくりともう一口。もう一口。

空になったグラスの氷と指で戯れながら、儀式がまだ途上にあるという感覚で、もう一杯注ぐ。
胸の動悸は確実に収まってくる。
このままこの作業を完成させたい。

2回目の追加を飲むうちに、どうにか投げやりな気持ちになるところまで自分を持っていき、そしてソファーの上に横になり眠りに落ちた。