32. サイン

投稿者: ゆきお

私は混乱した頭で、契約書の本体と附則のページを何度も読み返した。

考えてみれば、混乱する理由はほんとうはなかった。

絵里は、この取り引きの実行にあたってきちんとした契約書を交わすと言っていたし、私もそれに賛成した。
それに契約書は、よくネットなどで「奴隷契約書」などというタイトルで見るような、非現実的なものではなくて、様々な条件をきちんとと定めていた。

ビジネスがらみの取り引きなのだから、当たり前と言えば当たり前だ。
Sの側にも制限が多い。
だが逆に、制限があればあるほど、交している当人たちを性的に刺激する妄想の遊びのようなものでなくて、すべてが現実に順守されることを前提として書かれているその厳しさを感じさせ、なんとも言えない恐ろしい気持を抱いた。

不意打ちをくらった一時の頭の混乱はしだいにおさまってはいったが、それは、心の強い動揺へと変わっていった。

その日一日、絵里が戻ってくるまで、私の一日は、この6枚の契約書の文面から湧き上がってくる様々な考えや想像に支配されることになった。

日付けが今日の日付けになっていることも気にかかった。
絵里は、このままこれにサインするつもりなのだろうか。
こんなものをがありながら、どうして、出かける直前になって渡したのだろうか。
こんなものをいつのまに…。
一刻も早く、絵里と話し合いたかった。
あれこれ質問したかった。
こんな契約内容でいいのか…。

もはや仕事どころではなかった。

動揺しいろいろな考えが錯綜し、とりとめのない妄想が私を苦しめているうちに、12時がなった。
絵里の携帯に電話した。

不在になっていた。
お昼を食べるのも忘れ、契約書を前に、じりじりと待っている私のところに、1時前になって、絵里から折り返し電話が掛かってきた。

「ごめん、お昼も打ち合せが入っちゃって。」

絵里の声はあっけらかんとしていた。
少くともそう装っていた。

「契約書っていうやつ読んだよ。」

「ありがとう。」

「これ、今日づけになっているけど、もうこれで確定なのか?」

「そう。これが最終版。」

「変えられるところはないの。たとえば…」

「もうサインしたわ」

「えっ?」

「もう、出しちゃったのよ。」

「…」
もう、送ってしまったというのか…。
取り返しのつかない感が、私を襲った。

「じゃあ、ここにあるのは。」

「原本じゃないから。参考用のきみの控え。」

「…」

「だって、きみがサインすべきところはないでしょ。」

「どうして…?」

「え? 」

「サインする前に、相談してほしかったよ。」

「それは無理だったと思うわ、私。」

「…、とにかく話し合いたいよ。」

「いまこの電話じゃ無理だから、帰ったら、今晩ゆっくりね。もちろん、最初からそのつもり。説明はちゃんとするわ。」

「じゃあ、どうして事前に…」

「それは無理だったと言ってるでしょ。私なにりに慎重にいろい考えたのよ。予備の交渉もぎりぎりのところまで相当厳しくやったの。今ここじゃ説明は無理。あと堂々めぐりの議論はしたくないから、質問があったらまとめておいてね。じゃあね。」

私にある程度気を遣いながらも、仕事モードの事務的な口調になっていく絵里を感じた。

もう、サインして送られてしまった…。

とり返しがつかないという気持を抱きながら眼前で目にする契約書は、私にとって、厳然と立ちはだかる壁のようなものに感じられてきた。

そんな思いを抱くと、千々に乱れて迷走していた私の思考力は、不思議なことに、物事を整理して考える方向へ向かってきた。

附則のほうに強く心を奪われる規定があったが、読み進めながらそこに来るまでは目をつぶり、とにかく最初から、契約書の内容を一つ一つ見ていこうと思った。