35. 契約書を読みながら 3

投稿者: ゆきお

「避妊、妊娠回避の義務」の項目が、私の心を捩じるように刺したものだったとしたら、一方、表向きは他愛もないように見える別の一つの条項が、私の気持をちくりちくりと持続的に刺し、同じくらい、あるいはそれ以上の痛みを与えた。

「第7条 拘束時間内における実プレイ時間外の注意事項」の詳細さに私はやや驚いた。

「(1) 甲は乙に対し、公衆の面前で羞恥を催させるような行為をしてはならない。またプレイの事実を第三者に示唆するような態度を自らとったり、乙にとらせるよう強要してはならない。」… この項目は、いわゆる「野外プレイ」「露出プレイ」を禁止したものと読めた。
絵里が入れさせたものだろう。

私が妄想するSMの中で野外プレイや露出プレイはかなり頻度の高いもので、絵里をそこに重ねてみることもあったので、ある意味、また妄想と現実の境のゾーンの中で拍子抜けしたようなところもある。

しかし絵里の身の安全と、社会的な対面への影響のことを考えれば、とても賢明なことに思えた。

「プレイ日拘束時間外の注意事項」と題する第8条にはさらに「(1)プレイ日拘束時間外に、職業上の理由などで甲と乙が面会するとき、両者の親密さを第三者に想起させるような態度をとったり、相手にとらせるよう要求してはならない。 」というような条項まである。
さらには「 (2) 両者はプレイの事実が他に知られることによって社会的名誉が傷つけられることがないように細心の配慮を払う。必要に応じて、携帯やパソコンなどからの情報漏洩を防止するためのセキュリティを強化する。 」と、おまけまでついて、相手の男もこの関係が外部に悟られることについて非常に神経質になっているということが見てとれた。

しかし、その中で、第7条の2の「(乙は甲に対し、プレイの流れを損わないように敬意と親しみを持った態度で接する。社会的常識を弁えた男女が、親密な仲であるときに、節度を持ってとる態度 を基本と考える。そのような態度での同席が、両者の社会的名誉の毀損につながる暴露にならないように両者は細心の注意を払う。同席する第三者が無害である と甲が判断するとき(例えば飲食店従業員等の場合)は、第三者の目に触れる場所であっても、乙は上記の態度を保持する。 」というのがひどく私の心にひっかかった。

プレイがホテル内に限定されるのはよいとして、そうだと、ホテルに入ってそのプレイがはじまるまで、現地で絵里はその男に対し、愛人とパトロン、あるいは不倫の男女、年の離れた大人の恋人どうし、とにかくどれだかは分からないが、そんな関係にあるものとして接することになる。そして場所によっては、人前でもそう振る舞うことがある、たぶん食事先のレストランや、プレイ前のバーなのだろうか…

恐らく相手の要求でわざわざ入れられた条項だろうということが想像できた。

空港で合ったとき、絵里はどんな表情で男を見るのだろうか?
男の車の助手席にどんなふうに座るのだろうか?
どんなふうにタクシーの後部座席に並んで座るのだろうか。男は手を握るのか?
ホテルに入るときに腕を組んで入るのだろうか?
バーのカウンターでどんなふうに並んで座るのだろうか?
絵里は雰囲気のよい酒場でソファーに並んですわるときよく私の方に頭を載せてくる、そんなこともあるのだろうか…?

いろいろな状況に対する想像がとめどなく私を襲った。
すでに、この取引きの話を絵里からされたとき、こうした特殊な話題になるほど、その男と親密に会話を交していること、そこまでの濃密な二人の時間の積み重ねというものへの想像が私の心をひどく刺し、動揺させた。
絵里はビジネスの延長での私的な接待の続きとして説明したが、灰色ゾーンであったに違いない。
その灰色ゾーンで絵里と男がどんなふうに、どんな話をしたのか絵里はまだちゃんと話してくれてはいなかった。

そしてその灰色ゾーンに加え、私の知らない土地で、親密な男女として過ごされる時間として、二人のそのような関係が、契約の一貫でおおっぴらに、24時間の間とはいえ、もはや灰色でないところに位置付けられる…。

その想像は、絵里が男からSMの責めを受けているという私にとってはまだ妄想の中にしかない未知のイメージや、絵里と男のコンドームをしないセックスというできれば私が意識の上から抑圧したいものよりも、私の心を生々しく掻き毟った。

もう夕方近くなっていた。
一旦、契約書から離れ、冷蔵庫のストックで簡単に夕食の準備をした。

一呼吸おくと、私の次の関心は、別のほうに移っていった。

絵里と男が親密な男女としてふるまっているイメージを振り解けないまま、私は契約書にある「小野寺武」の名をネットで検索しはじめた。

最初の手がかりに行き着くのは造作なかった。

小野寺の名は、A市に本拠を置く、あるかなりの規模の 公益法人の理事の一人として、その団体のページでみつかった。
同姓同名という可能性がなくはないにせよ、そこにある小野寺武が問題の人物であることはまちがいないと直感した。
その団体の名は初めて目にするが、絵里が導入しようとしているシステムの話と符合するように思われた。
理事長やその他の人名から、その法人が同族的経営により運営されており、公益法人とはいっても、その分野で手広く経済的利益をあげていることが見てとれた。
小野寺武はおそらく、その同族の一人なのだろう。
れいれいしいあいさつ文を掲げている80歳くらいの理事長の息子の一人といったところか。

しかし、その先の情報へなかなか行けなかった。
そこから、絵里の言うような会社の社長として肩書や、その会社の検索に行きつくことができなかった。

絵里は私に何かごまかしているんだろうか、そんな自問とともに、その男の正体についてもっと知りたいとますます思いながら、検索を繰り返しているうちに、絵里が戻ってきた。