36. 「言うようにする」

投稿者: ゆきお

帰ったきた絵里とは、すぐにその話をすることはなかった。
もちろんお互い、その話をしなければいけないことは痛いほど分っていたのだが。

いつものように、他愛のない話をしながら、食事を終え、ワインを片手に、続きの飲みのタイムに入った。
いつもならいちばんリラックスする時間だが、このところの流れから、最も緊張する瞬間になる。

「あのさ…」

「うん」

それまでに少しアルコールが入っていることもあって、私から、話をどうにか切り出した。

「やっぱり、最終版を作る前に事前に相談してほしかったよ。」

「ごめんなさい。それはそうかもしれないんだけ、それは無理だと思ったの。」

絵里は、言葉を選びながら説明しはじめた。
要は、プレイにいたる過程の様々な事柄で余計私を苦しめたくないということだった。

「私だって、こんなものを見せるのはつらいわ。」

「…」

「見せないでいることもできたのよ。」

「あの男に、ぼくに見せろと言われたのかい?」

「そうじゃないわ。むしろ逆よ。第三者に見せるなと書いてあったでしょ。」

「じゃあ、ぼくに見せたのは契約違反ということか?」

「厳密に言えばね。でも、その点については、向こうの了解をとってあるわ。家族なんだから、常識的な範囲でしょ。」

「じゃあ、なおさら、ぼくの意見を…」

「あのね、私の条件を入れさせるまで、けっこうたいへんだったのよ。神経がすごくすり減って、へとへと。」

「それは分かるけど…」

「もし、きみが事前に見たら、いろいろ注文をつけるでしょ。」

「それはそうだよ。」

「その注文について、私はきみとも交渉しなきゃいけなくて、向こうとも交渉しないといけなくなる。」

「まあ、そうだね。」

「たぶん、きみの注文には向こうが飲まないようなものもあるよね。」

「あるかもね。」

「そして、ものすごい時間を費やして、まとまるかまとまらないか。板ばさみになった私の使う神経は2倍じゃなくて、2倍×2倍どころか、その何倍にもなるし、今の私にはその精神力はとてもない…。その間に私たちの間には小さな項目やちょっとした文言をめぐって、議論が絶えなくなる。でも結局、契約書ができるのだとしたら、今とたいして違いのあるもののわけない。」

「…」

「だから悪いとは思ったけど、私の心と同じくらいに、どうせきみの心にも傷ができるのなら、こんな形のほうが二人の時間のためにいいと思ったの。」

「て、言ったって…」

「ゆきおくんさ、私に嘘ついたことない? 嘘じゃなくても、私に心配させないように、言うべきことを黙っていたりとか。」

「それは… なかったわけじゃない。」

「あるわよね。」

「…」

「Nさんのこととか。」

「…」

Nさんというのは、事実婚をはじめて間もないころ、私の翻訳本の担当をした編集者の方だった。
同世代の女性で知的でさわやかな美女だった。
彼女とは学問上の話もとても私と気があい、私の仕事に興味を持ってくれた。
雑談が新しい企画の話にまで発展し(結局それは実らなかったのだが)、現下の仕事の事務的な話を明らかに越えて、なんだかんだ用事にかこつけて必要以上にひんぱんに会った。
そしてそのとき、絵里に対し、私が会っている担当編集者が、同世代のしかも美しい女性ということが言い出せずに、年配の男性だと思わず嘘をついてしまった。
彼女に対して私は憎からぬ気持を抱いており、向こうもこちらのことをそう思う気配が感じられていたので、絵里に彼女の存在をなんとなく気取られたくなかったというのは確かである。
しかし、私としては、いろいろかこつけたとはいえ、仕事上のことで会ってうきうきした気分で話すということだけで満足しており、それ以上にプライベートに誘うとか、男女としてどうこうとかいうことはまったく考えてはいなかった。
が、結局、いろいろな経緯から私が頻繁に会っている編集者がNさんという女性だということが絵里に発覚し、彼女はやはり私が危惧したとおり、嫉妬で怒った。
私としては、嫉妬をぶつけられるほどの浮気はしていないという思いと、しかし本当のことを言えなかったといううしろめたい気持がまじった複雑な心境で、絵里の追求に耐えながらしどろもどろに言い訳した。
そしてそのときの私の答えは、

「余計な気を回してほしくなかったから」

だった。

「ああ、あれはね…」

そんな過去を走馬灯のように思い出しながら、私はあいまいに返事した。

「あと、××××のときもよね。」

絵里が口にしたのは、出版されなかったある翻訳書のタイトルである。
それは、5年ほど前に、ある出版社から人を介して頼まれた仕事の話だった。
買い切りということで突貫工事で翻訳の初稿を終えたところで、あちらの雲行きがあやしくなり、なんだかんだ言って企画が途中から進まず、出版の予定がのびのびになったので、翻訳料の支払いも数ヶ月待たされたあげく、結局出版社自体が倒産して、最初に約束されていた50万円ほど翻訳料がまったく回収不能になった一件である。
私も絵里も、新しいマンションへの引越しの初期費用をその翻訳料にあてこんでいた。
物件を選ぶところからの絵里の期待の大きさにおされた私は、彼女が大乗り気で選んだマンションの賃貸の仮り押えの契約のときに、入金の雲行きがあやしくなってきたことを感じつつ、状況の逆転に一縷の望みを託すような気持で、回収できない可能性があるということを言い出せなかった。
そして、その入金がずるずる遅れていくということは、私にとって絵里に対して針のむしろで、出版社からの言い訳を自分が繰り返しながら、結局予定の金が入らないということを白状したのは、本契約のための入金の期限の前夜であった。
この引越しを諦めるしかなく、手付も戻らないという悲愴な気持で、絵里にそのことを話さざるを得なかった。
絵里はあきれたという顔をしながら、黙って私の話を聞き、その夜私に一言も口をきかなかった。
が、驚いたことに翌日の土曜日、私が存在を知らなかった彼女のへそくりの貯金から回収不能になった50万円の額を下してきて、契約を進めるよう淡々と私に促した。
絵里は、私に怒る代りに、

「もう少し早く教えてくれれば、他にもっといいやりようもあったのに。こんなことは、これで最後にしてね。」

と言ってくれた。
そして何故、ぎりぎりまで言わなかったのか、という諭すような質問に対して、私はやはり、

「心配をかけなたくなかったから。最後にはどうにかなると思っていた」

そんなような言い訳を使った。

私の中には、会社をクビになる家族にに直前まで言い出せない勤め人の男、 あるいはクビになったことを奥さんや子供たち知られたくなくて、毎日スーツを来て喫茶店に「出勤」してばれるまでの時間を稼ぐような男たちと同じような性質があった。
そしてその翻訳料の一件のときの板挟みのときの気持は、経済的に絵里にべったり甘えたくない、自分でできる分はどうにかしてでも自分でなければというプレッシャーによって増幅されていた。

絵里は、「一人で抱え込まないで、なんでも相談して」と、私には諭すように言ったが、生活していくうちに、私のそんな気質が伝染したのか、彼女のほうも二人にとって都合の悪いことを 、ぎりぎりまで言い出さないという癖が出てきた。
たとえば、1週間ほどの長期出張が決まって、二人が楽しみにしていた外出の計画をキャンセルしなければいけなくなったのを、出張直前になるまで言いださないとか、そんなような、ある意味小さなことではあるのだが。

どうして直前になって言うのか、という私のむっとした質問に対して、

「だって、きみがあまりに楽しそうに期待していたから、なかなか言い出せなくって…。」

と言う答は、まるで私のもので、それで私は何も言い返せなくなるのだった。

「でも過去のことは過去のことよね。ゆきおくんが、今、私に嘘ついたり隠したりしてることは何?」

「ないよ。」

「ほんと?」

「ほんとだよ。」

「そうかな…。まあ、いいわ。」

そんな受け答えをしながら、私は、絵里の不在中、ネットサーフィンをしながら、いろいろな妄想でオナニーしていること、多くのばあいそこに絵里を重ね合わせていることを思い出しはした。
隠していることには違いない。
しかし、世の男としてそのくらいは、嘘や隠し事にはいらない許容範囲の行為ではないか、などと心の中で言い訳した。

そんな罪の意識を振り切って、言うべきことは言わなければと思った。

「あのさ、絵里の気持ちや、言うことはわかる。でもほんとに大事なことは、ちゃんと言ってほしい。」

「分かったわ。」

「ほんとかい。」

「ほんと。」

その会話自体がある種、今まで繰り返された儀式のようなもので、私は、絵里がやはり私のことを慮って、言わないようなこともあるだろうとは予感はした。
ただ、たとえばこの契約書の存在をちゃんと私に示したほどには、大事なことについては、絵里は私に知らせるべきことは知らせるだろうというのも納得した。

問題はその大事なことの範囲の解釈の違いになっていくわけだけが…。

「ゆきをくん、前に話したことあったけど、私がガンになってもう余命がないってきみがお医者さんに言われたら、告知する?」

「そんな話したね。お互い言おう、ちゃんと正直な話を聞きたいって。その気持変らない?」

「そうね。言ってね。」

「言うよ。君は言う?」

「言うようにする。」

「そうだね。」

急に持ち出された、そんな話をしながら、口から出る言葉とはうらはらに、私は、たぶんその時になったら、絵里に対し最後まで隠し通す道を選ぶだろうと以前より強く思った。

そして、恐らく絵里も同じことを感じているのではないかというのが、暗黙のうちに痛いほど伝わってきた。

私たちは口に出す言葉と、それ以外の回路の違うミュニケーションで、奇妙に一体化していた。