37. 「抑止力」

投稿者: ゆきお

「出しちゃったんなら、それはそれとして。内容のことだけどさ…言っていい?」

絵里が帰ってくるまで、頭の中で、いろいろうずまいていた疑問をこちらからも少しづつぶつける気になってきた。

「言って。」

「あのさ、法的には意味ないよね、こういう契約。公序良俗に反するっていうやつだよね。」

「それはそうよ。」

「じゃあこういう紙切れ、何の意味があるんだい?」

「取引自体、公序良俗に反するけど、お互い、遂行にあたって確認は必要でしょ。あとから、細かいことで話しが違うとか、言ったとか言わないとか、そうならないように。おおっぴらに弁護士の調停とかできないわけだから余計、慎重に決めておかないと。」

「報酬の内容って書いてないよね。」

「書けないわよ。それは。」

「別紙にも書いてないのかい。」

「それだけは書いていない。お互いの口頭だけの約束。」

「じゃあ、だいたい、相手が守るっていう保証は。」

「だから紳士協定よ。」

「信用できるのかい。」

「もともとそこの部分の信用から始まった取引なんだから、そう言ってしまえば身も蓋もないわ。」

「守らなかったらどうなるんだい。向こうにしても、君にしても。」

「私が守れなかったら、その時点で話しがストップ。」

「向こうが守らなかったら。」

「本則の第8条の3に、著しく信義を損なう行為があるときは、契約の存在を第三者に開示することができる、というのがあるわよね。」

「これって、妙な話だなと思って読んでたんだけど。つまり、何かあったらぶちまけることができるってこと。」

「そう。これは、むしろ私に有利なのよ。私が入れさせたの。」

「と、どうなるんだい。」

「最悪のばあい、だれかしかるべき人にこれを見せて相談して、圧力をかける。向こうの会社の筋へもね。もちろん、私も傷つくし、今の職にもかかわってくるわけだけど。ほんとに暴露されれば、ダメージは向こうに大きい。」

「つまり、刺し違えるってこと。」

「そう、その覚悟があれば、制裁できるってこと。名誉毀損で訴えるわけにもいかないし。」

「しかし、そうなったら大ごとだね。」

「お互い避けたい事態よね。だからね、契約書は、もちろん細かいことの取り決めが必要なんだけど、こういう取引をしているっていう証拠としても必要なの。」

「分かるけど。」

「向こうにとってもそれが必要なのは、私から一方的にパワハラされたってことで訴えられたときに、これを使えば水かけ論にならなっいていうことなのよ。もちろん向こうにもダメージはあるわけだけど、パワハラ、セクハラで訴えられるよりましだって。」

「なるほど、向こうは、報酬は金銭だったと言えばいいわけだしね。」

「そうことなのよ。」

「この契約書って、核兵器みたいなものだな。使えないけど、あることだけで大事な抑止力。」

「そう。いいこと言うわね、きみ。」

「感心してもらわなくたっていいよ。」


「それよりね、飛行機の時間をどうするか、ちょっと相談したいの。」

「へえ、ぼくにも相談する余地のあるところがあったんだ。」

「そんなふうに言わないで、お願い。行くまでと帰ってからは私たちの週末でもあるんだから。」