40. 侵蝕

投稿者: ゆきお

「それで…OKだった?時刻のほう。」

絵里はまたも無言で小さく頷いた。

しばらく前までの手強いネゴシエーターの口調は消え失せ、取り返しのつかない大きなミスをした新人女子社員のようにおずおずとしていた。

もともと絵里にはそういうところがある。
物事が自分の計画した通りに進んでいるときは、かなり大胆な物言いで事を進めることもできるし、ちょっとやそこらの障害にへこたれることもない。
しかし、予想外の自分の小さなミスに気づくと、必要以上に自分を責め、落ち込むことが時々ある。
今の落ち込みようから、相手方とのメールのやりとりの私たちの生活への侵入の重みについて絵里も私と同じように感じていること、それなりに配慮をしていたこと、そして自分のミスで私の心に波風をたててしまったことにひどく疚しい気持ちを抱いていることが痛いほど感じられた。

「そう、それはよかった。ぼくらの決めた時間どおりで。」

「…ごめんね。」

絵里の頭にはもう、今のミスのことしかなかないようだった。

「いいよ。必要だったんだろうから。」

「こっそりメールしたことできみが気分を害してるの、分かる。ごめんなさい。でも、私、どうしてもきみに今メールさせてって言うこと、できなかったの。でも切符の手配の関係で今晩じゅうにどうしても返事してくれって言われてて…」

「分かってるよ。絵里の気持ちは。」

「…ありがとう。」

絵里の私に対する健気な気遣いを不憫に思い、慰める口調になりながらも、私の頭は別の方に動いていた。

「それよりさ、聞いていい?」

「…」

「この契約書さ、いつ作ったの。」

「作ったというか、向こうから原案が送られてきて、それにコメントしながらやり取りしていろいろ決めていったの。」

「それっていつ?」

「金曜日の夕方に私が契約OKの返事したでしょ。」

「うん、それで?」

「そしたら、向こうはすでに原案を用意してたらしくて、すぐ金曜の夜には添付がもう届いてた。」

「それで?」

「だから、土、日、月と改定案や追加条項をやりとりしながら決めて、最終OKの版で確認したのが今日の朝届いてたの。」

「今日の朝ぼくに渡したのは、今朝プリントしてたやつってわけ?」

「そう…」

絵里がいつもより早起きして、自分部屋で何か作業をしていた気配は感じていた。
絵里の部屋で、彼女のプリンタが動いている気配もあった。
今朝、絵里が私に契約書のコピーというものを渡して出て行ったあと、たぶんプリントしていたのはそれだろうと思ったが、その勘は正しかった。

プリントの一件はともかく、私にとって衝撃だったのは、この家で私といっしょに過ごした土曜、日曜の間に絵里が、契約書を読み、検討し、対案を作るという一連の作業を行う時を過ごしていたことである。
SMプレイ契約書と題されたその文書中の生々しい条項が頭をよぎった。

絵里はぎりぎりの交渉をしたと言った。
それだけになおさら、それに見合うだけのやりとりの密度があったことにも私の想像力は働いた。
交渉ごとというのは難航すればするほど、そして対立点があればあるほど、妥協点をみつけるための過程で、否応なしに双方に濃いコミュニケーションを交わすことを要求する。
そこでは一種の連帯感のような結びつきさえも生じる。
私は、穏やかに見えていた週末の間、絵里がそのような過程の中にいたことを思い、絵里とそのような交渉をしていた見えない相手に対する嫉妬をも感じた。

二人で未来を語り、自分の新しい仕事への希望を語っていた充実した週末。
「そのこと」の影を追い払うかのように仲睦まじく過ごし、愛し合った時間。
私の中ではそのように位置づけられていた幸せな時の流れ。
実は、その間にも、絵里の時間と心が、一部分とはいえすでに「そのこと」に具体的に捉えられていた… その事実を今になってはっきり知らされると、苦い思いが胃のあたりからじわじわと広がっていった。

あの充実した週末はすでに絵里の側では侵蝕されていたのか…。

「知らなかったよ。よくそんな時間あったな。」

先ほどの慰めるような私の口調は詰問するようなものに変わっていた。

「だって、他にその時間ないでしょう。それに金曜の夜中はきみ、酔いつぶれていたし、土曜の午前中は二日酔いで寝てたでしょ。」

絵里のほうは、私のいらつきのまじる態度をさわやかになだめるように切り返す、余裕のある、いつもの上手なネゴシエーターの態度を取り戻していった。

「それはそうだけど…。」

大事なときに、友人たちと酔いつぶれてしまい、二日酔いにまでなって半日棒に振ったということで、頭の痛み吐き気の中で感じていた自己嫌悪が蘇ってきた。
私が寝ている間に、孤独に、契約書と交渉相手に相対している絵里の姿も思い浮かんだ。
それを思うと私の心にも疚しい気持ちが走った。

だからといって、神経をざらりと逆撫でされるような感情が消えるわけではない。

「だけど、日曜もそんなことしてたわけ?」

「きみが自分のことをしてる間にね。きみその時は気づかなかったでしょう。」

「でも知って気分のいい話じゃないな。あんなに楽しかった週末だったのに…」

「ごめんなさい。気分のいい話じゃないというのは、そうだと思う。でも、じゃあ私は、きみに今契約書の交渉してますって言えばよかったの?」

「…」

「私にとっても、この前の週末はすごく大事な時間だった。そして、ほんとに素敵な週末が過ごせたと思ってる。きみは、この先の新しい仕事の話もした。久しぶりだった。私、とてもうれしかった。それが私にとってどんなにうれしかったか、分かってくれる?きみがね… 私たちの素敵な週末の裏の時間で私がこんな契約書の交渉をしていたことを知って、きみがね、裏切られたような気分なっているっていうの私、分かってる。その素敵な時間が汚されたと思っているんでしょ。でもね。でも、それでも私、私たちのあの時間を二人の間で、そんな契約書のために台無しにされたくなかった。もし二人で、そんなもの見ながら議論していたら、あんな素晴らしい時間はなかったのよ。私はきみから新しい仕事の希望の話を聞くことはなかったし、そんなことはもうずっとずっと二度と来なかったかもしれない。苦しむだけのきみをずっとずっと見ることになって…。きみと話しているときは、私、きみとしか向き合っていなかった。必要な交渉と、きみとの時間をすっかり切り離すことができたと思ってる。私の中だけに閉じ込めておけた。私は私なりに、二人の素敵な時間が汚されないように必死だったのよ。だからきみだって、私がこんなふうに言わされるまで気づかなかったでしょう。分かって。お願い!その時間を汚されたなんて自分から思わないで。素敵な時間のままにしておいて。私だってつらかったの。つらいの!…」

絵里の口調は、途中から、堪えていたものを一気に吐き出すようになっていた。

テーブルに置いたワイングラスの脚を離さずに握っていた絵里の手に力が入りぶるぶると震え、私はグラスの脚が折れるのではないかとさえ錯覚した。

話の間じゅう私を見つめていた目がぎゅっと閉じた。
涙が静かにこぼれはじめた。

この話があってから初めての、そして何年かぶりの絵里の涙だった。