43. 検査証明書

投稿者: ゆきお

「今日ね。」

「うん。」

「遅くなったのはね…」

夕食のあとソファでワインの続きを軽く始めたとき、その話題向けて先に口火を切ったのは絵里だった。

「検査でクリニックに寄ってたの。」

「… 検査ってあれ?」

「そう。」

「で?」

「全部OKだった。」

「よかったね。」

間抜けた言葉だがそう言うしかなかった。

「こういうのってその日のうちに結果が出るのね。1時間待たなかったけど、でも待ってる間やっぱりドキドキしたわ。もちろんだいじょうぶって分かってるけど、何があるか分からないでしょ。」

「そりゃそうだね。」

「ほっとしたわ。一応見せてあげる。」

そう言って絵里は封筒から一枚の紙を取り出して私に差し出した。

検査証明書と題したクリニック名と日付の入った紙に、3項目の検査項目にいずれも「−」印が記されているのが見えた。

見終わった紙を返すと絵里はそれをまた封筒にしまいサイドテーブルに置いた。

そう、その紙は私のために発行されたものではない。
私はそれを一応見せてもらっただけなのだ。
封筒にしまわれた証明書を横目で見やりながら、そう思った。

「これできみも安心ってことだよね、基本。私がだいじょうぶなんだから。」

「そういうことになるね。」

「念のためきみも受けてみる?すぐよ。」

「いや、やめとく。君のその結果で十分だよ。」

「そうね。」

「ところで、向こうもう受けるんだよな、それ。」

「そうよ。もう連絡があった。」

「…」

「全部陰性だったって。」

「そう…」

今度は、「よかったね」などと社交辞令を言っている場合ではなかった。
もし仮に向こうに一つでも陽性の結果が出れば、円満に契約そのものがなかったことにできる…。
しかしその可能性はあっけなくなくなった。

「それ、絵里のほうもスキャンして送ったりするのか。」

「ううん、その必要はないわ。現物は持っていけばいいことになっているから。OKだったってメールだけ入れといた。」

「…」

私より先に結果を先方に知らせたのか…という思いがとっさに広がった。

私のその心の動きを察知したように、絵里が口を開いた。

「向こうから昼間に結果が知らされてきて、プレッシャーになっていたし、一応向こうの切符の手配もあるから、でぃるだけすぐに知らせて欲しいと言われてて、帰りの電車からメッセだけ…」

検査と陰性の結果の事実を共有することによって、私の入り込めない一種の繋がりの出来るようなコミュニケーションが交わされたことに思いがいたると、心の中に酸っぱい思いが広がった。
しかし、そのことを絵里にあれこれ言って自分の心の引っ掻き傷を広げることはしたくなかったので、そのまま聞き流した。

「それよりさ、少し聞いていい?」

「うん?」

「小野寺という人、××の理事とかいう人?」

「そう。調べたの?」

「それはそうさ。ネットでひととおりの検索はした。」

「そうよね。」

「それでさ、その君が会社で取引している会社やその社長というところがよくわかんないだけど。」

「ああ、そういうことね…。その辺ややこしいからあんまく詳しく説明してなかったから。」

絵里が説明してくれたところでは次のようなことだった。

小野寺はその公益法人の経営者の一族で理事であるとともに、オフィス環境整備関係の会社をやっている。
法人のオフィス環境や最近ではIT関係環境の整備の仕事はその会社が委託をほぼ一手に引き受けている。
会社はその業務をメインにしているため売り込み先を特に探す必要はなく特にネットなどで宣伝業務をすることもなく、最低限の情報しか載せていない。

そして絵里は私がソファで見ていた私のPCを借りるとひどく地味な、テキストだけのある会社のホームページに行き、そこにあった事務的なpdfの文書を開いてみせた。
確かにそのY社の文書に小野寺の名前が代表取締役として記されていた。

パイロットプロジクェクトは、まずその法人の一部のセクションに導入され、うまく稼働すれば法人の全セクション、そして、ゆくゆくは法人の関連団体までへと広がるビジネスだと、絵里は説明した。

絵里の話をひととおり聞くと、今まで抽象的にしか存在していなかった、その男のことがしだいに一人の人間として現実味を帯びてきた。

小野寺という男の、年齢や風貌、人となりについて聞いてみたいという欲求がむくむくと湧いてきたが、かろうじて抑え、あえて無関心を装った。

もう夜が更けていた。
ベッドルームへ行く時間となり絵里は寝支度にバスルームへ行った。
リビングから離れる前に忘れずに検査証明書の入った封筒を自分の部屋に持っていった冷静さが絵里らしいと思った。

夕方一人で絵里を待っている時に久々に戻ってきていた性的興奮は、絵里と話している間にすっかり去ってしまっていた。
そして不穏な胸騒ぎだけが残っていた。

先ほど見た、陰性の証明書が、なにか禍々しいもの、まるで陽性を告げる何かのように私の頭にこびりついた。

小野寺という男もその証明書を持っている。
二つの検査証明書が重ねられるシーンが頭に浮かんできた。
私の知らない領域、その男との領域に絵里がまた一歩踏み込んで遠のいていくように感じられた。

絵里が土曜日の朝出かけるまで、今日を入れてあと3晩しかない…。
そう思いながらも、夕方思っていたように絵里とセックスする気にどうしてもなれなかった。

絵里を待ちながら、私は杯を重ね、自ら酔いを深めた。
深まった酔いをことさらに絵里にも自分にも装った。
絵里も、夕方に私が思っていたように、夜の交わりを期待していたかもしれない…そんなことをぼんやり感じながらも、自分のほうが先に眠りに落ちていくのを感じた。