44. 出発の朝

投稿者: ゆきお

「じゃあ行ってくるね。」

ドアのところでコートを着て私に向きなおり、私の唇にいつもより長くキスした絵里の顔は、微笑んでいた。
その裏にどれだけ重い感情が隠されているか知っている私は、

「気をつけて。」

と言うしかなかった。

絵里が出てから、改めてマンションのドアから半身になって顔を出して、歩いていく絵里の姿を見送った。

機内持ち込み用の小さなキャリーケースを引きながら歩いていく後ろ姿を見ながら、コートの下のパンツスーツに包まれたその形のよいヒップを想像した。最近ではほとんどなくなったが、出張が多かったときは、そうやってうよく見送ったものだ。今までも見慣れた光景…、努めてそう思おうとした。

絵里の姿は、エレベーターホールのほうへと曲っていって見えなくなった。

結局一度もこちらを振り返らなかった。そのことに軽い失望感を覚えながら、あえてそうしなかった絵里の気持を汲もうとした。

ドアを閉めて部屋に戻ると、11時をかなり回っていた。その事実に改めて私は少しいらついた。最初私が提案したように12時半過ぎに出るのと、結局1時間あまりしか変わらないことになる。そかし、そのことで二人で過ごす土曜の午前中がなくなった、いや奪われたという欠落感は大きかった。

二人で過した朝の時間は決して短かくはなかったはずなのに…。

朝は、二人とも休みの日としては、早くから目を覚ましていた。明け方から何度なくベッドの中で目を覚まし、またうつらうつらとまどろむというのを繰り返していた。隣の絵里も同じだった。二人で何も言わずに、抱き合ったと思えば、身体を離して眠りに専念しようと努めたりした。外が明るくなってきたころには、思い切って起床すれば、さわやかな朝が迎えられるのは経験上知っていたが、そうする勇気がなかった。前夜までの世界の名残りをぎりぎりまで引き伸ばそうとしているかのようだった。起きて活動しはじめれば、今日のスケジュールに向けて全てが動き出すのをお互いが知っていた。そして二人の世界は昨日までのものではなくなる…。

結局、私はその疲れのためか、何度めかの眠りのあとほんとうに寝入っていたらしい。9時半に目覚しが鳴りはっとして起きたときには、絵里はすでにベッドを抜け出していた。
バスルームに顔を洗いに行くときには、すでに絵里がシャワーを浴びたあとで、ソファーでいつもと変らぬ休みの朝のように雑誌を見ていた。キッチンにはすでにコーヒーが入れてあった。

「朝ごはん、どうする?」

「うん、食べる。」

絵里に声をかけると、いつものような明るい返事が帰ってきた。休みの日も朝食はだたい私の担当だ。実のところ私は、ほとんど食欲がなかったので、その絵里の平然とした様子、そして普通の食欲に少し驚いた。私も絵里のその食欲にどうにかついて行こうとした。いつものようにたわいもない話をしながら遅い朝食の時間を過した。

ちょうど朝食が終るころ、絵里の携帯がなった。

訳もなく、びくっとしたが、絵里の応対を聞いて安堵した。会話の調子から、絵里の母親だということがわかった。

「今日はだめ。泊まりがけで休日出張なの…。」

「う~ん、わかんない。今シャワーだから、聞いてか折り返し連絡する。」

そんな絵里の応対が聞こえてきた会話は、20分ほど続いた。

「ふう…。お母さん」

「そうみたいだね。」

「××へ泊りがけで行くなんて言っていいのか。」

「だって言ってないと、何かあったときに心配するでしょう。それに、実は彼氏以外の男の人と一晩過しに行くなんてほんとのこと言う必要ないし。」

「それもそうだけど…」

絵里の自嘲のこもった皮肉は私の心をもちくりと刺した。母親の長電話にいらついてきていた絵里の言葉の調子は、先程までとは変っていた。絵里持ち前の辛辣な知性のエンジンがかかりはじめていたのが感じられた。それは、これから起きることに対し戦闘体勢に入るために自分を鼓舞するものだと私は解した。それは朝のまどろみの続きから、自分自身に、そして私たち二人に、これから相対しなければいけない現実をつきつけ、二人を目覚めさせるものだった。「そんな言い方しなくても…」という言葉を私は飲み込んだ。

「ところで、おじさんたちが日本に戻ってきてて、今日、私たちもいっしょに夕食どう?っていう話だったのね。だから、余計ちゃんと言わないと。せっかくだからきみだけでもどう?って言われたけど。即答するの面倒だと思ったから、今はずしてることにしたの。」

「ああ、そういうことね。」

「どうする。行く?」

「やめとく。」

向こうの家族での食事で、今までも、絵里の帰りが遅くほとんど最後まで私一人で参加したことは何度もあり、絵里のどたきゃんで結局私一人だったこともたしか、二度ほどあった。アメリカに住んでいる絵里のおじ夫婦とも何度も面識があり、気が合うのも確かだ。しかしよりよってこんなときに…。

「とてもそんな気になれないよ。」

「一人でいるよりいいかもよ。」

「やめとく。」

「それもそうね。」

一人でいるよりいいかも…、私を刺すこの言葉に、悪気がなかったのは分かっていたが、会話は、あぶないものになってきた。絵里は私のことを気づかっているのは確かだ。そして、絵里もどう言っていい言葉がみつからないのだろうと思う。しかし、この言葉は、これから私が過さければいけない時間のイメージを二人の上に投げかけた。夜を男と二人で過ごす彼女と、私の間の決定的な溝を思い起させた。

「歳とるとだんだん電話が長くていやになっちゃう。あ、もうこんな時間。」

きまずい沈黙を振り切るように絵里は言うと、仕度のために、自分の部屋に入っていった。

戻ってきた絵里の、グレーのパンツスーツに上品なフリルの白いブラウスという服装、普段より念入りに整えられた化粧や髪は、重要な出張や大事な仕事のときに時々みせる、いつもよりフォーマルな雰囲気を絵里に与えていた。それは見慣れていないものではない。しかし、休日の朝、そして部屋着姿の私の目の前に立つ絵里の姿はいつもよりまぶしく写った。

いつもと違う朝、出発の朝だった。