48. 夜

投稿者: ゆきお

蕎麦屋を出たあとすぐに家に戻る気にはとてもなれなかった。
電車に乗って最寄り駅の大型書店をぶらつき、都会を歩き、カフェで本を読み時間をつぶした。

家路へとなかなか足は向かなかった。

といっても、夜をどこかですごす当てはない。

近所の飲み屋はたいていが、絵里といっしょに飲みにく場所になっている。
絵里が遅いとき、待ち合わせに一人で先に行って飲んだりしていたこともあるにはある。
が、店の人や馴染みの客に、社交辞令とはいえ「今日は奥さんは?」などと聞かれたりするのは嫌だった。

映画のような何か意味のあるストーリーのあるものに触れるたくなかった。
恋愛ものなどを避けたにしても、何かのシーンで自分の心がどう動くか分からなかった。

本屋や家電量販店、カフェなどをぐるぐる回って時間を潰すのも限界がある。

あれこれ逡巡したが、結局2件めのカフェを決心して出て、ありあわせのもので自宅で夕食を作って食べることにした。

家に戻るともう9時近かった。

とはいえ、帰ってみると何か作って食べる気にはとてもなれなかった。

こんなことなら、絵里の実家への招待を承諾しておけばともちらりと思ったが、そんなところで平然といるためのエネルギーを考えると気が遠くなりそうで、やはり行かなくて正解だったと思った。

ソファにぐったりと座り、冷蔵庫の中のチーズの残りのつまみを肴にバーボンをロックでちびちびとやった。

9時…
今ごろ絵里は…
もうプレイするホテルなのか。
それとも、精神的な前戯のように二人でゆっくりと食事し酒でも飲んでいるのか。
それとももうとっくに夕方からプレイははじまっていて、長い夜に備えて休憩でもしているのか…

刻々と過ぎていく夜の時間を、抑えても抑えきれないそんな想像とともに私は過さなければならなかった。

そして、 10時、11時と夜が更け、一般的に男女がラブホテルで夜を過ごすまぎれもない時間帯になってくると、もう想像力の責め苦から逃れようがなくなった。

胃のあたりを締めつけられる思いがずっと続いた。ちょっとしたシーンの想像が、突然の激しい心臓の鼓動を呼んだ。
緊張で喉はからからだった。
妙に酢っぱく粘つく唾液だけが口の中に不快にからみついていた。

立ち上がってみるがどこに行くこともできない。
居間の中をぐるぐると回り、そしてまたソファへ。
そんなことをいたずらに繰り返した。

気の狂うような焦燥感の中で、自分のマンションが牢獄のように感じられた。

一昨晩、昨晩のの絵里との甘美な夜のことは慰めになるどころではなかった。
それは思い出せば思い出すほど逆効果だった。

その男に抱かれ、絵里はそんなふうな手放しの声を上げて達するのだろうか。
いや、今この瞬間、まさにその声をあげているのだろうか。
あんなふうに体を反らしているのだろうか…。
あの力で男にしがみついているのだろうか。
吸い寄せられるように密着した腰を動かしているのだろうか …。
あの熱く湿ったものは男のペニスをリズミカルに締めつけているのだろうか。

一つ一つの具体的な思い出が自分を苦しめる想像に呵責ない彩を与えた。

(そうした、自分の知っている絵里の反応からもたらされる想像は、彼女がプレイの夜を過ごす度、そしてそれを思い描く度に、私の心を痛めた。しかし、ずっと後になって、私の知っているそれが絵里の最も大きい快楽の反応だと思い込んでいたことの愚かさ、滑稽さを知ることになる。)

私がそこで嘗めた経験は、不倫の疑惑に苛まれることとも性質が少し違うものだったと思う。
疑惑があれば、人はそこで真実を知ろうとするだろう。
過去の断片をつなぎあわせて推理をしたり、事実を突き止めるにはどうすればよいか策を思い巡らすだろう。その部分に大きな想像力のエネルギーを使うことができる。
いや、そこで推理という行為を通じて理性を使うこともできる。
場合によっては行動へと向かわせる。

私を苛むものは、不倫の現場のビデオ見せられたりするのともまた性質が違っていた。
まぎれもない現実のシーンのショックを前にしたのだったら、想像力はむしろ麻痺し萎み、目の前の事実へ立ち向かうほうへ人のエネルギーは向かうだろう。

しかし私の場合、彼女が他の男に抱かれている、いやそれ以上のことをしているというこが既定のまぎれもない真実である一方で、そうした抽象的な真実の向こうの具体的な現実を知る可能性も、知るために努力する可能性も閉ざされていた。
私のエネルギーはその具体的なシーンへと一直線に向かう想像力のために使われるしかなかった。

向こう側への唯一の回路として、絵里の携帯がある。
しかし、絵里に電話してもメールしても無駄なのは言うまでもない。
電源を切ってあるに違いないだろうし、もしサイレントモードになっていたにしても、いやもし仮にそうならむしろ、二人の男女が情事に没頭している最中に、携帯の着信の気配だけが虚しく続くことになる…。
そんなシーンを思い浮かべるとあまりに惨めだった。

昼間に見たネットで見たホテルのプレイルームやそこでのプレイの一端を写した画像も、おせっかいに私の想像力を助けた 。
この目で見ることはできないが明らかにある状況にある今の絵里、その彼女が経験しているあれこれのこと、頭の中に展開するそれらのことが、自分の今の現実をほとんど覆い尽くした。
想像力は、理性の推論とは程遠いもの、私のコントロールできない妄想となって私を襲った。

昨晩の絵里を思い出せば出すほどに、寝室へ向かうことができなくなった。
私たちの甘美な思い出を閉じ込めているはずの寝室が、今や私の立ち入りを拒む禍々しい場所に見えてきた。
あたかもそこで事が行なわれているかのように。

ソファで夜を過ごすしかなかった。

実のところその晩のことに関しては、具体的な行動について順序立てて書けるほどよく覚えていない。

焦燥感に苛まれながら、部屋の中をぐるぐる回り、ソファにまた戻り、バーボンのロックを次から次へと飲み、ヘッドフォンで耳が痛くなるほどの大音量でヘヴィメタを聴いて外界から意識を隔絶しようとし、胃に酢っぱいものを感じながらトイレへ行き昼間の天ぷらそばを戻し、ガスターを飲んでまたバーボンを飲み、そしてあまりよくないとは思いながら、誘眠剤を飲んで自ら眠りを求めたこと…そんなことの切れ切れな記憶が残っているだけだ。

肥大して牙を向いた想像力との戦いからその晩私を救い出したのは、無用に痛めつけられた肉体の消耗の力だった。