50. 黒パン

投稿者: ゆきお

絵里が帰ってきた。

自分で鍵を開けて入って来ずに、階下でベルを押してメインエントランスをアンロックしてもらったのは、荷物を持っていて煩雑だったからなのだろうか、それとも私に心の準備を与えてくれたのだろうか。
むしろ彼女自身の心の準備のためなのかもしれない。

「ただいま。」

「飛行機順調だったみたいだね。」

「うん。揺れなかったし。」

帰ってきた絵里を努めていつものように迎えようとした。
絵里もまたいつもと変わらない明るい笑みを浮べていた。

いや、やはりいつもと同じではなかった。
上り口でコートを脱ぐ前に、どちらからともなく顔をよせて、いつもより長くキスした。

そのまま抱き合う気配になったとき、絵里のほうに少しためらうような動きがあり、それをきっかけに、お互い思いをふりきるように身体を離し、日常の動作に戻った。

そのまま抱き合っていたら、お互いのこみ上げる思いは熱を持った涙になっていただろう。
そのまま床に転げ合って、狂おしい抱擁と接吻になっていたのかもしれない。
二人の長い歴史なかでは、そういう場面も数度あった。

もしかしたら、この日もそれでよかったのかもしれない。

しかし、私たちは、過ぎた24時間に起きたことの重みを二人の場では極力ぶつけ合うことなく、軽微なものと扱うことで、二人の生活を守るやり方をどちらからともなく無言のうちに選び取っていた。

「ちょっと休んだら、今日は早くにはじめよう。××の生ハム楽しみ。久しぶりね。はい、パン。」

絵里はそういうと、キャリーの上に載せたバッグから、黒パンの包みを私に渡すと、荷物を持って自分の部屋に入って行った。

家に戻る電車の中の絵里とメールをやりとりし、今日の夕食ともワインのつまみともつかない買い物の内容を伝えたところ、××の黒パンを買ったか?と質問のメッセージがあった。私たちが贔屓にしている地元の評判のベーカリーのものだ。

そこまで気が回らなかったことを伝え、今日はなしでいくか、あるいは欲しいのだったらもう一度外に出て買ってこうようかと提案すると、駅からの帰りがけに自分が買ってくるというきっぱりとした調子の返事が返ってきたのだった。

こういうときにそうした些細なことを忘れず、行動を崩さない絵里の神経の太さにちょっと驚いたが、そこに、私たちのいつもの生活のリズムを崩さないないようにという彼女の意思の力と気遣いが理解でき、うれしかった。

そう、このまま早い日曜の夕べの食事を始めれば、私たちは、過去24時間余のできごとを括弧に入ったものとして、別の次元に閉じ込め、週末を二人でいつものように終えることができるだろう。
そうしなければいけないのだ。

食材を包みから出して、準備していると、絵里が自分の部屋からバスルームに行ってシャワーを浴びている気配が伝わってきた。同時に、洗濯機の回るかすかな振動音も聞こえてきた。

出張や二人の日中の遠出から帰った後の絵里の行動としてはいつものものだ。が、今日はそのバスルームからのかすかな雑音が、特別の意味合い持ったものに聞こえ、胸を引っ掻くように響いた。