51. 「何食べたの」

投稿者: ゆきお

シャワーの後、いったん自分の部屋に行った絵里が居間に戻ってきた。

部屋着用のサマーセーターにデニムの膝丈のスカートの姿の絵里の表情は、さすがに旅の疲れから気持ちが切り替わったのか、外向きの笑顔がくつろいだ穏やかなもの変わっていた。

さっぱりした? … いつものそんな一言が何か重大な意味をもってしまうようで、言葉を飲み込んだ。

「テーブルにする、ソファにする?」

「ソファにしよう。きみの豪華おつまみで、ゆっくり飲みたい。」

二人で皿やグラスをソファの前の低いテーブルに移動した。

冷えた白ワインで乾杯した。

「おかえり。」

「ただいま。」

妙な風に心が通ったと思った。

オフホワイトのサマーセーターに包まれた胸膨らみが妙に新鮮に生々しかった。
それにしても純潔の白か…それを選んだのには無意識にでも何か意味が込められているんだろうか…そんな皮肉な考えや、シャワーの後もまたブラをしているんだな、などと思いながら、視線が胸のほうにとどまった。

胸元に視線を感じたのか、それを逸らすように絵里が口を開いた。

「お土産なくてごめんね…どうしようかと思ったんだけど。」

「分かってるよ。だいじょうぶ。」

土産を持ってこなかったのは絵里なりの配慮があったのだろうと理解した。

「食べはじめたら、お腹空いてきた。」

生ハムやオリーブを私より旺盛な食欲で口に運んでいる絵里のその言葉に、二日酔いの気配がまだ少し残る私はちょっと驚いた。

「足りなかったら、パスタでも作るよ。でも、お昼食べたんだろ。」

「一応。」

「何食べたの。」

「お鮨。」

「一人じゃないんだろ。」

「そうね。」

「いいね。向こうにいる間、ご馳走責めにあったんだろ。」

「まあね。責めっていえば責めね。」

思わぬところで図らずも出てきた「責め」という言葉に、二人が同時にぷっと吹き出し、笑いとともに緊張がほぐれた。

「昨日の昼は?」

「和食懐石風の洋食。軽かったわ。」

「ホテルのレストランででもゆっくり食べたのかと思ったよ。」

「それは夜。空港から少し行ったところの店。空港から街中までけっこうかかるのよ。」

「あ、そう。」

一流ホテルのレストランで二人がゆっくり食事しているという昨日の昼の妄想がいったん否定されたあげく、結局は別の形で肯定され、自分の心の空回りぶりが、嗤われたような気になった。

「お酒飲んだ?」

「昨日ちょこっと。今日は飲んでない。」

「昼も?」

「1杯だけ。」

「何飲んだの。」

「ん…グラスシャンパン。」

私に気を使ってかやや言いにくそうな気配のその答えを聞いて、今夜のお酒を選ぶときにスプマンテにしなくて良かったと別の意味で心底思った。
スプマンテとかカヴァとかその手のスパークリングワインを飲むときには、二人の間では、どうしても本物のシャンパンを飲むほどに贅沢できないので、贋物で代用しているという意識がつきまとう。
だから、時々、本物のシャンパンを自宅で買ったり、外でグラスでも注文する時は、私たちにとっては特別の機会の位置づけであり、それは二人の間に輝かしい喜びをもたらしてきた。

シャンパンでよろしくのお祝いの乾杯か…そんな皮肉の言葉を、幸運にも土壇場で選んだ白ワインとともに、飲み込んで会話を続けた。

「夜は何食べたの。」

「私は鹿肉の赤ワイン煮。」

「へえ、美味しそうだね。」

「美味しかったわ。思ったより、柔らかくって。」

向こうは?という自然な設問から反射的に理由もなく、脂ぎったステーキを食べている中年の男のイメージが浮かび、それを振りほどくように、あえてその質問を避けた。
お酒についても、どうせ高級赤ワインと決まっている、その銘柄についても訊かなかった。

わずかな逡巡の気配が伝わったのか絵里がフォローするように口を開く。

「でもフルコースでなく、アラカルトでメインだけ。軽めね。」

「それは賢いね。」

ここ数年、旅行などで二人でディナーとホテルという組み合わせの機会を持ちながら、遅くまでたっぷり食べ過ぎ飲み過ぎで、そのままいい気分ではしゃぎながら部屋で寝てしまい、翌日になって、「ちゃんとエッチするなら、ディナーはほどほどにしないとね。」などと話しながら、また同じことを繰り返してしまう経験が、そんな言葉を反射的に吐かせた。

その言葉の皮肉っぽい意味合いを絵里も受け取ったようだ。
話の方向はもうはっきりした一点を指し示している。
その進路をそらすかのように今度は絵里が質問した。

「ところできみは何食べたの。ちゃんと食べた?」

「ちゃんと食べたよ。昨日の昼は、××の天ぷらそば。」

「あら、いいわね。」

「夜は?」

「牛のステーキ肉買ってきて一人で豪華ディナーした。」

絵里を心配させまいという気持ちに、抑えつけていた嫉妬から来たのであろう虚勢が混じり、とっさに口からのでまかせが出た。
ほとんど何も口に出来ずに、嘔吐しながらバーボンを飲んで惨めな夜を過ごしたとは、とても言うことはできはしない。
それにしても、根拠のないイメージの中で見えない男を相手に架空のステーキで闘っているのは後になって思い起こせば我ながらいじましかった。

「赤ワインは開けてないの?」

「うん、一人で開けるのもったいないからね。ここはいっちょ、男一人にぴったしのアメリカンスタイルで、ビールとバーボン。」

自分でもユーモアとも皮肉ともつかない言葉に、絵里もかすかに困ったような表情のまま吹き出した、二人の間に緊張が微妙に解けたり、色合いを変えたりした。

「飲み過ぎなかった?」

「だいじょうぶ」

「ほんと?」

「もちろん」

小さくともはっきりと嘘をついたのは私のほうだった。