72. 立ち位置

投稿者: ゆきお

一時予備校の講師をフルタイムに近くしていたことがある。
博士課程の最後のあたりから、翻訳の仕事がある程度軌道に乗り、絵里が生活上のパートナーとして戻ってきて、なんとか食べられるようになるまでの時期のことである。
そのとき、講師陣による待遇改善要求が、組合を結成しての労動争議にのようなものに発展し、それに巻き込まれて組合の代表メンバーに入る羽目になった。

交渉の過程で、議論が熱し、話が深まれば深まっていくほど、相手との間に一種の人間関係が確立してくるのを見た。
傲慢な経営者でしかないと思っていた男が、一人の人間として真剣に苦悩する存在だと分かったりする。

そして、背後に組織を背負っているときの駆け引きの行為と心理のリスキーさについて知った。
そのままでは、とうていで埋められるはずのない母体組織間の溝を埋めるために、代表者は、密室での激しい議論の中で、そのままでは母体組織が納得しないかもしれないところへとぎりぎりわずかな一歩を、歩み寄る。
闘争が決裂しそうになるたびに、妥協点をどうにか見つけようという努力があり、互いの譲歩が行なわれ、合意したものを再度持ち帰り、今度は自分の母体から突き上げられながら説得し、激しい議論があて、また密室に持ち帰る。
それを繰り返すうちに溝が埋まり、最後のほうのフェーズになると、密室でこれ以外ないという落とし所が決まったあとは、むしろ仲間の説得のほうに努力が向いてていく。

「これじゃあ、こっちの総会はとても通りませんよ。」
「こちらもここから先の線は、どうやっても譲れないんだけど、たとえば引き換えといっちゃなんだけど…この辺の条件とセットで提示してみてくださいよ。どうしても来週には通してもらはないと。これも、ここだけのオフレコなんだけど、役員会のほうでも今年は事情があって…。」
「いや、こちらもぶっちゃけ、同じ講師といっても世代によって考えが違うわけだから、その辺の部分をケアしてもらわないと、そんな簡単にはとても…」

そんなふうな駆け引きをしながらきめ細かい妥協を成立させていく密室の議論の中で、どうしても必要な妥協と知りながら、経営側と通じあって仲間を裏切っているような良心の痛みさえしてくる。
密室の交渉を終えたあと、代表メンバーどうしで、それを持ち帰る組合の総会対策を話し合い、それでよかったのか、自分たちの立ち位置はどこにあるか、とりこまれていはいないのか、いや誰がやってもそれが妥協できるぎりぎりの線だっただろうとか、自分たちの因果な役割を自嘲しながら、議論したものだ。
複数の人間でさえそうやって立ち位置を確認しながら綱渡り的にこなしていけたもので、独りだったら、間違いなく、板挟みに押し潰されたり、迷走していたろう。

決裂を許されない交渉の代理人というのはもともとそのような危険な状況にあり、その存在意義もある程度そこにいるというところにあるのだろう。
そして、そのとき代理人が時に抱く、漠然とした裏切りの気持、良心の呵責には、一種の官能的な蜜の味がありはしないか?