73. 揺らぎ

投稿者: ゆきお

自分たちの身を守るためとはいえ集団と集団の間の力と金の闘争に加わっていなければならないことに嫌気がさして、私がその世界を去ったとき、翻訳という孤独な仕事と、絵里という女性が、疲弊した心に居場所を与えてくれた。

慣れない政治的な駆け引きに心を翻弄された、そんな昔の苦い思い出が戻ってきた。
そしてその苦さが、目の前の自分の不安と結びつく。

絵里が私に一文字も見せることなく契約書の中身を確定したとき、もし私に最初に案を見せていれば、私と小野寺との二人を相手に交渉をしなければならず、板挟みになった自分はとても耐えられなかっただろうと言った。
そのとき心外に思ったが、結局それでよかった、いや、それがよかったのだ。
契約書の話のときにすでに、自分の経験からそれを思いやってみるべきだった。

契約書として事が安定を見ていたところで、私は、絵里また交渉の場に新たに突き戻すことになった。

絵里の性格だと、保証はしないと言っても、やってみると約束した以上は板挟みになりながら、妥協点を見つけようとするだろう。
だから先ほどのメールがあった。
そのメールが絵里にとっては解決だったはずだが、私は、さらに新たな交渉へと追いこんだ。

もし、話がこれ以進まず、絵里が私に負い目を感じれば感じるほど、あるところから、絵里と小野寺の話の基調は、今度はどうやって私を納得させるか、私に対する対策にシフトすることだってあり得る。

自分の過去の組合の経験は漠然とそんな成り行きを思い起こさせた。

自分の過ちから、絵里を向こうへ追いやってしまった…。
絵里と小野寺は今何をしているのか。
何を話しているのか…。

どうせのこと、絵里が私に不誠実であってくれればよかった、どうしてそうしてくれなかったのか、という八つ当たりのような気分さえ生まれてきた。
そして、先程の「分かった」という、絵里の言葉が、実際は私を宥めるための口先だけの言葉で、もう、自分の中だけに飲み込み、一言「だだめだった」と早くメールしてくれないかという気持になった。

仕事部屋に戻れずに、氷の溶けたオレンジジュースを片手に、ソファにぼっと座ったまま、過去にまで遡り、そんなことをぐるぐると考えていた。

空腹を感じとにかく何かお腹に入れなければと思って立ち上がろうとしたとき、わざとあけっぱなしにしてあるドアからPCのメールの着信音が部屋から聞こえた。

8時半。
絵里との電話から1時近く経っていた。

PCを確認すると案の定、絵里からのメールだった。

一行だけのものではなかった。
はやる心で読んだ。

読み進めていくうちに、この1時間の間の不安が裏づけられ何倍にも増幅され、ちくりとちくりとした後悔の念が、きりきりと心を刺すものに変っていった。