84. 香り

投稿者: ゆきお

一度買い物に出ようと思った気持がくじかれた。

割り切れない気持で、仕事にとりかかろうとしながら、ふと、小さな疑念が浮かびむくむくと大きくなった。
これを解決しないと何もできないと思った。
矢も盾もたまらず、ネットで航空会社の営業所の電話番号を調べ電話した。

「××から東京まで今日の便、至急なんですけど…」

「申し訳ありません、最終まで全て満席でございます。
…どうしてもいうことでしたら、ターミナルでキャンセル待ちで…」

他の二つの航空会社でも同じ返事だった。

電話を切って冷静になって航空会社のホームページを改めて見たら、電話などしなくても、ネットでリアルタイムで空席情報が掲載されおり、こにすべての便に「満席」の印があった

もちろん私が今問い合わせたタイミングは、もし絵里が当初の便に乗れないと分かってから問い合わせたのよりかなり遅い。
だから、絵里がほんとうにもっと早い便に乗れなかったのかどうかは分からない。
しかし最終便まで今全て満席となっているのは絵里の言うことを裏づける一つの状況証拠だった。

それにしても、航空会社に電話するという自分のこの行動と、その結果は、あまり後味のよいものではなかった。
何を期待して電話したのだろうか?
もし「他にも早い時間に空席がある」と言われたら私が受けたショックははかり知れなかったろう。
今のように「これからの便はすべて満席」と言われても、もう少し早い時間に電話したらどうだったかの可能性について100%の心が晴れるものではない。

その上、根拠もなく裏切りの香りを嗅いでこのような行動に出た自分への嫌悪感が強く残るだけだ。
いずれにしても何の得にもならない行為。
最初から電話しなければよかったと思った。

そして、絵里の言うことについて、これほど明からさまに猜疑心に駆られた行動は、初めてだった。
何か見えない小さな楔が私たちの間に打ち込まれ、私自身がそれを弄んで、小さな裂けめを大きくしているような気がした。
それに対してもう一人の自分が、その危険な兆候にアラームを鳴らしていた。

それなのに、しばらくたってから、深読みすれば最初からそういう言い訳を用意して遅い便を予約してあったということだってあり得る…、という可能性にも思い至った。

どうかしている…。 そんなふうにまで考えるなんて。
そう、思いなおした。

そんなふうな猜疑心が心の底にあれば、絵里が帰ってからの態度にも出るだろう。
二人のためによいことは一つもない。

この件についてこれ以上考えるのを止め、絵里の説明を待とうと思った。

メールがある前にそうしようと思っていたように、今夜の二人の夕べのための酒と食べものを調達しがてら、気分転換に街に出ることにした。
相変らず3月末にしては温かい陽気と、それに似合う家族連れで賑う商店街。
昨夜垣間見た暗い世界とはまった無縁の世界がそこにある。

そして世の中はむしろそれで動いているのだ。
日常の実践的感覚が少しづつ戻ってきた。
絵里の告げた到着予定時刻だと、待ち時間その他を合わせると、この時間の乗り継ぎだと、帰宅は9時半を大きくまわるだろう。
絵里がどんな状態で帰ってくるかは分からないが、とりあえず食べても食べなくてもいいように対応しようと思った。
今夜は赤ワインがお互いにとって落ち着くだろう。

地元ではいちばん大きい、ワインセラーのある酒屋に入り、二人の好きなブルゴーニュの赤の、私たちとしては週末飲みの中でも高級な部類にはいる銘柄を選んで、共通の会計からではなく自分の懐から奮発した。
先程の電話の件の後ろめたい気持がどこかでそうさせていた。

その赤のやさしいルビー色と繊細な香りはいつも心をゆったりさせた。
本来はそれに見合う食事と一緒のほうがいいはずだが、単独で飲む贅沢感もまたいい。
チーズを何種か買った。
これでバゲットがあれば、もし絵里が何かの具合で食べられず、遅くなってから急にお腹がすいたとしても、冷蔵庫にある別のトッピングを足して対応できる。

家に戻り、午後から夕への長い時間に心を備えようとした。
細かいことに拘るのはもうよそう。

今まで出張の予定で帰りが大幅に遅れたことや、それこそ延泊になったこともある。
ともかく絵里が帰ってくれば、ここで二人の夜が過せる。
それに日曜は、今日ではなく明日だ。
絵里の体力を考えたらやはり予定をずらして連休の中日にしたのは正解だった。
いや、日程が変わって明日が休みだということが、絵里、いや二人にそういう行動を取らせたという見方もできるのか。

おい、そんな詮索はもうやめようと自分に言ったばかりではないか…。

頭を建設的に切り換えるために、とりあえず中間のノルマを果してある技術翻訳のほうのファイルを閉じ、新しく企画がまとまりかけている学術書の翻訳本のほうに目を向け、それを読みながら、関連文献などを探索した。

ほんとうならもう絵里が羽田に到着するのを期待する時間だと思ったとき、絵里からのメールがPCに舞いこんだ。

「ゆきおくん
こから空港に向かいます。

誤解されたらいやなんだけど、小野寺さんといっしょではないです。
飛行機の便が遅くなったのは、私のほうの調子の都合で、彼には関係ありません。
迷惑をかけたのは私のほう。
帰ってからちゃんと説明するって書いたけど、気を回してたら私のほうでもちょっといやかなと思って。
心配しないでね。
じゃあ

せっかくの土曜の夜ごめんね。
夕ご飯先にちゃんと食べてね。
私は、残りものでいいから、ほんの少し口に入れるものがあればいい。
早く会いたい。
絵里 xx」

信じよう。
疑っても誰の何の得にもならない。
そう思った。

「羽田着!」
8時半を回ったところで、短かいメールがあった

「了解、待ってる!」
こっちも短かく返した。

ブルゴーニュのボトルを開け、空気になじませることにした。
テイスティングのために家で一番いい大きなチューリップ型のワイングラスについだ薄いルビー色の液の層から、ふわりとした花のような香りがゆっくり漂ってきた。

疑いのきな臭ささを、跡形もなく追いやる、虚構の花の細やかだかしたたかな香り。
たとえはかなく漂っていくものであっても。

今夕は何より二人でその香りを大事につかまえていようと思った。