85. 声

投稿者: ゆきお

そろそろ家に向かう電車の最後の乗り換えかと思ったころ、がちゃがちゃと鍵を開ける音がして、ドアのほうへ行ってみると絵里がいた。
どう見ても10分は早い帰りに虚をつかれた。
それに、いつもは下のインターフォンで開けてもらうのに。

「ただいま」

「お帰り!?」

荷物を入口に置くと、パンプスをを脱ぐのもどかしいように、抱きついてきた。
何も言わずにしばらくそのまま抱擁した。
昨日出かけたときと同じベージュのマーメイド・スカートのスーツ。
いつものファッションだとどちらかというとスレンダーなイメージだが、この手のスカートを着る絵里は、あれ?と思うほどヒップが豊かに見え、新鮮だ。
そんなことを思いながら尻に手をやると、腰をよじるようにして体を離した。

「早かったね!?」

「タクシーで来たら、意外と早かったの。」

「ああ、なるほど。」

タクシーを使うというのは私の頭の中の選択肢には鼻からなかったが、モノレールと電車の路線で迂回しない分の直線距離を考えれてみれば確かにそうだ。

訊きたいことはいろいろあったが、いろいろ会話に入るより前に真っ先に気になったことがあった。

「どうしたの、声。風邪かい?」

「ん…、はっきり風邪じゃあないみたい。熱はなくて鼻水もないんだけど、起きたら、あまり喉の調子がよくなくて…」

困惑のまじる曖昧な顔つきで言う。

「疲れたんだね。」

「そうみたい…。」

お互いの間で何かが了解された、と思った。

絵里がそんな声になることがある。

まだ私の性欲が盛りの学生時代、定期的にセックスしはじめて1年以上たったころの修士の最後の春休みのとき、絵里が私のアパートに入り浸りになった。
音の問題で悩みの種だった隣の住人がちょうど帰省したいたこともあり、その3週間ほどの間、セックス三昧に明け暮れた日々を過した。
そこで絵里は、みるみるうちに、改めて女としての絶頂の快楽を覚えていった。
手放しの声をあげ、最後はいきっぱなしにさえなる女体の反応に導かれれ、こちらも20代前半の男の好奇心と精力で、相手をじらしたり、自分への刺激を最小限にしながら激しくピストン運動をする技巧を覚えながら、自分の力で女体の反応をどこまでも引き出していく快楽を貪っていった。
宵の口から明け方近くまで続く激しい行為の中で、もうくたくただというところに繰返し繰返し挑みかかると、そのたびごとにまた絶頂へ追い詰められ、最後、声にならない声を上げ、消耗してほとんど気絶するように絵里が眠ってしまったことがあった。
昼ごろ起きた絵里の声がひどくかすれたものになっていた。

その後も、激しく長い快楽の夜のあとの眠りのあとに絵里の声がそんなふうになることがあった。
言うと恥かしがるので、こちらもからう気持ちでわざと指摘したりしする。
そんなふうな翌日の絵里の声のかすれは、私たちにとって特別の意味づけを持っている。
結婚直後も何度か軽くそうなったことはあったが、しかし、さすがにもう最近ではそんな経験はない。
これはまた大きく深いオーガズムとは別物で、狂乱の夜の産物であり、最近の私たちにはあまり縁のないものになっていた。

そんな私たちの間の歴史が一瞬のうちに頭をよぎった。
絵里の曖昧な表情の裏には明らかに私と同じ思いがあると見えた。

「昨日、遅かったの?」

「…3時過ぎかな…、あとで話すね。」

何気ない会話に二人だけの暗黙の前提が共有されている。

「分った。」

「ところで、ゆきおくん、ご飯ちゃんと食べたの?」

「待ちながら昼の残りをちょっとつまんでた。」

「ちゃんと食べなきゃだめよ。」

「絵里は?」

「お腹空いてないけど。いつものように、飲みたいかも。」

「ワインとチーズ、用意してあるよ。」

「ありがとう。とにかく着替えてくるね。ちょっと待ってて。」

いつものように荷物をもって自分の部屋に入り、そのあとバスルームでシャワーを使っている様子がきこえた。

ワイングラスを持ちながら独りで考える。

訊きたいことはたくさんある。
しかし、今晩は、とにかく絵里が自分から進んで話せることだけ聞こうと思った。