86. 土産

投稿者: ゆきお

いつもよりゆったりとバスルームで過して戻ってきた絵里は、シルクのワンピースパジャマに着替えていた。
簡素なボックス型のデザインで、フリルがついて腰をしぼったネグリジェのようなものではなく、どちらかというと機能性を重視したものだ。
しかし下に何も着ていないことが伺えると、逆に余計な飾りがない分、絵里の肉体の生々しさが伝わってくる。

「ふうっ。やっと帰れた。」

ソファにそろそろと尻をあずけ、体を沈めると溜め息まじりに言った。
かれすた声が、つとめて明るくしているその口調とのギャップで余計に目立つ。

「とりあえずワイン飲もうか。」

グラスにゆっくりワインを注いで差し出すと、グラスを受けとったままで、テーブルに私がが置いたボトルに目をやり、ラベルをじっと見た。

「どうしたの、こんないいワイン」

「ゆっくりしようと思って。」

「そうだね。ありがとう。」

大きなグラスに鼻を入れたまま顔を上げ、大きく一口含んだ。 喉元がきれいだ。
顔を戻して、目をつぶったまま口の中にふくみ、しばらくじっと味わうようにしていたと思うと、何度かに分けてゆっくりゆっくり喉のほうに送り飲み込んだ。
飲み終ってもしばらく目つぶったまま黙っている。 閉じた瞼の睫毛がかすかに震えている。
涙ぐもうとするのを堪えているのかとさえ思われたとき、目を開け、まだ手にしていたグラスを置いて言った。

「ワインおいしい。」

「これが、なんとなく今日のぼくの気分。」

「落ち着く…」

ぽつりと言った。

このままの雰囲気をずっと味わいたかった。
しかし、早晩少なくとも訊かなければいけないことがある。
私のほうで明るく主導権を握ろうと思った。
そのほうが絵里も楽だろう。

「それで飛行機どうしちゃったのさ。」

「いろいろ疲れてたみたいで、二度寝しちゃったの。簡単に言えば寝坊ね。」

私のストレートな調子に、即座に同じように反応するのが絵里らしい。
それに加え、ハスキーな声がどちらかというとぶっきらぼうな調子を与えている。

それが会話のはずみとなった。

「寝坊か。」

「えへっ」

「寝坊なら寝坊って正直に言いなさいよ。」

「は〜い。」

口を尖らせて言う。

二人の間に小さな笑みが戻ってきた。

「でもね、けっこう深刻だったのよ小野寺さんも含め大騒ぎさせたし。恥かしくって。きみにだって、『寝坊しちゃった〜 ゴメンネ! 帰りは夜だから』じゃすまないでしょう。」

「そりゃ、そうだけど…。」

「疲れて朝起きられなかかった」と「寝坊した」は、場合によっては同じことでもあるに違いないが、まったく同意でもあるまい。
しかし、いろいろなことを「寝坊」というキーワードでまとめておくのは悪くない。
消耗の理由は二人の間では、絵里のその声によって、すでに簡潔にそして雄弁に説明されている。

「小野寺は迎えに来てくれなかったの?」

「小野寺さんが確認の電話くれたとき、私まだ起きてもいなかったの。」

その言葉が正しいとしたら二人で朝までベッドにいたのではないということになる。

「それで、これからだと飛行機まず危ないだろうということで、次の便にしようって、最初。私も、小野寺さんさえも、軽い気持で考えていたんだけど、航空会社に電話したら、連休ちゅうで満席っていうことが分かって、それから大騒ぎ…」

「それで結局?」

「小野寺さんがいろいろ手を回して旅行会社がキープしてある席を回してくれたの。地元に顔がきくから。…私一人じゃたぶん無理だったから、危ないところだった…。」

「なるほどね。」

「ファーストクラスに乗っちゃった。」

「へえ…。」

「それしか空いてないって言われたって。ファーストクラスって国内線でも生まれて初めて。」

「特別任務のVIPなんだから、毎回そのくらいしたってばちあたらないと思うよ。今度から要求してみたら?」

「あはは」

生まれて初めてのファーストクラスに弾んだ声の調子に対して出た皮肉の冗談に、かすれて乾いた笑い声で絵里が反応した。

「そうしようかなぁ。」

「そうしなよ…。」

「じゃあ、随行員の同伴とかも要求してみる?」

「随行員ってここにいる男のこと?」

「そう。他に適任がいなかったらね。」

「それは任務の種類によるでしょうよ…。」

これ以上話が変な方向に行かないうちに止めたが、自動的とも言える上滑りの言葉の会話はむしろ心地良い。
ともかくも、二人の間の緊張がほぐれてきた。

「それで、小野寺は送ってくれなかったの?」

「小野寺さんは、午後と夜と、取引先との打ち合わせと食事があって、私の飛行機の切符の手配が終って私と簡単にお昼したところで、バイバイした。あとで空港にいるときチェックインできたかどうか電話くれたけど。」

電話か…、そこではじめて、絵里がその声で小野寺と会話している様子を思い描き苦笑した。
それに、そう、当たり前と言えば当たり前だが、絵里と小野寺はその携帯でいつでも会話できる状態にあるのだ。

「羽田着いたって電話した?」

「してない。向こうで乗るまでで契約の1回の任務終了だから。それに落ちるとかいうことがあればニュースで分かるでしょう。」

それはそうだ…。
私に気を遣った言葉なのかどうか疑う以前に、その理路整然とした考えに圧倒さた。

「で、絵里一人で空港まで荷物かかえて行ったの?」

「ハイヤーを空港まで用意してくれたの。親しくて詮索しないような人がいるから、見送りにつけてあげようかと言われたけど、断わった。それにタクシーじゃなくて、ハイヤーの運転手さんは顔見知りらしかったから、その人がいればとりあえず安心。」

「じゃ、お昼のあと、ハイヤーに乗るまで一人でずっと何してたの。」

「ホテルで休んで、それから一人で散歩した。そのくらいの元気はあったから。私一人で散歩したことなかったから、ちょっと新鮮だった。」

こういうときの絵里の好奇心と精力にはいつもながら驚かされる。

「あそうそう。お土産買ってきた。」

いつのまにテーブルの上においてあった紙袋から、丸く平たい箱を出して見せた。
何の変哲もないフランスのカマンベールの箱だ。

「チーズ? カマンベール?」

「みたいでしょう、でもチーズケーキなの。」

中を開けてみせるとやはり形はカマンベールだが、絵里誘われて、指で押してみると確かに感触が違う。

「切ってみるね。」

目の前にあったチーズ用のナイフで、皿の上のチーズと同じような形に切り、いっしょに並べる。

「おいしいといいけど…。」

絵里につられて、私も一切れ口にする。

「おいしいね。」

「あ、おいしい! よかった!」

たしかにうまかった。
赤ワインに合う甘いデザートというものはなかなかない。

前の2回は、絵里はお土産を買ってこないといい、私もその心づかいをよしとした。

ところが今日はこうやって、向こう側からのお土産を二人で賞味し、自分が特別に買ってきたブルゴーニュとの相性を楽しんでいる…。

24時間の挿話として二人の生活から切り離して生きようと思っていもの。

その日常への侵入に抵抗がないほど、それに慣れてきた…。

それとともに小野寺という存在もだんだんと私たちの会話の普通の登場人物となっていく。

私が、絵里の向こうでの行動を知りたいと思っている限り、避けられない事態、いわば私が呼び寄せた事態でもある。

「これ、わざわざ買いに行ってよかった! 昨日の夜飲みに行った先のお店の女の人が教えてくれたの。」

「飲みに行ったの?」

昨日の夕方から夜のことについての自分の憶測を頭の中で高速再生しながら、いったいどの時点で飲みにいったのだろうという疑問がつのる。

それが私の表情に出たらしい。

「そう。話せば長くなるから、あとで話すね。あのね、いろいろたくさんのことがあったの。私もちゃんと整理できてなくて、飛行機の中で、どこから話していいか考えてたんだけど…。私ちゃんと話すからね。だけど今日は…」

「分かった。」

私のほうも整理できないくらいの多くの疑問がある。

それと同じほどのことを絵里もかかえているとすれば、話は容易ではないだろう。
ましてや今日は…。

「もうちょっと飲む?」

残り少なくなった絵里のグラスを見て、ボトルに手が延びかける。

「今日は一杯だけにしとくわ。」

「うん、そのほうがいいね。」

「ちょっと疲れたから、もう休もうかな。」

「そうしなよ。」

「ごめん、あと頼んでいい。」

「もちろんだよ。とにかく休みな。」

「ありがとう。」

かすれた声にはベッドルームが似合う。
絵里の背中を見ながらそう思った。

狂おしい情熱の夜を空が白むまで絵里と過した翌日、かすれ声に、目の前の女からその声を引き出した自分の男としての力を感じ、再び鋭く欲情して、強引にその体をベッドに引き倒し戯れた二十代のある日を複雑な気持で思い出す。

今日はその声を私より先に聞いた男がいる…。
一口食べた土産のチーズケーキを赤ワインでゆっくり口の中で溶かしながらそんなことを思った。
まるでその考えを道連れにするように、ねっとりした口の中のものを飲み込んだ。