91. ラーメン

投稿者: ゆきお

「おはよう。」

ベッドの中で寝惚けた目を開けると絵里が立っていた。

レースのカーテンの向こうから明るい日の光が漏れている。
休みの朝をすっかり寝過したようだ。

開け離した寝室のドアの向こうからコーヒーの匂いが漂っている。

「おはよう…、んん…何時、今」

「もうすぐ11時。良く寝てたね。夕べ、遅かったの?」

「ああ…。ちょっと仕事気になって、一度起きちゃって。」

「ちゃんと寝なきゃだめよ。」

「そうなんだけど…。」

「よく寝てたから、起こすの悪いと思ったけど、いくらなんでも、そろそろ…。」

なんだか立場が逆の会話のような気がするが、考えてみれば絵里が、正体もなく寝てしまったのが12時前。
私はといえばシャワーの後、Y美の記録や向こうでの絵里のことについての考えが頭の中でまだぐるぐると回り、一度起き出して居間でもう一杯ワインを飲み、寝たのは結局4時を回っていた。

まだ頭が回らずぼうっとしている。
絵里のほうは声はまだ擦れているとはいえ、すっかりさわやかな朝のめざめを享受した活動体制にはいっているように見える。

「朝ごはん、こっちで食べる?といってもトーストくらいしかないけど。」

「いや、起きてくからだいじょうぶ。」

バスルームで顔を洗いなんとか目を覚まして居間へ行くと、ダイニングテーブルで絵里はマグカップに入ったコーヒーを飲み、雑誌をめくっていた。
女性誌でなく経済誌というのが、絵里の生活リズムへの回復力を物語るようだ。

「はい、トースト。」

「絵里は?」

「私はもうとっくに食べちゃった。悪いけど、お腹空いてて。」

焼けたトーストにバターとジャムを塗ってコーヒーで流し込むと、やっと少しづつ体が目覚めてきた。

「ね、お昼何食べたい?」

目の前のトーストを胃に入れるのがせいっぱいでそれ以上のことを考えたくない私と、もう昼ご飯の心配をしている絵里との間の、一日のスタートに対するこのギャップ…。

「オムレツでも作ってこのままブランチにして…。」

「私さ、食べたいものがあって…。」

「何、食べたいものって。珍しいね。」

「ラーメン」

「ラーメン??!」

「そう、ラーメン。ちょっと油っこいのを食べたくて。」

あらためて絵里のその体力の回復力に驚く。

「よく朝からそんな気になるな。」

「あら、もうお昼よ。」

「…それにしてもラーメンねえ…。あっちでおいしいラーメンでも食べて目覚めたの?」
ギャップへの苛立ちからか、自分でも言わずもがなだと思う皮肉が出る。

「そういうんじゃなくて、××軒のラーメン。」

「××軒?」

「そう××軒のラーメン。」

××軒は、私たちが6年間の大学、大学院生活を過した大学街にある中華料理屋だ。
中華料理屋といっても、夫婦二人でやっているような中華定食やラーメンが売りの昔ながらの小さな店だ。
中でも何の変哲もない中華そばが、手軽で美味しく、私のアパートのすぐ近くだったということもあって、学生時代、昼と言わず夜といわず二人してよく食べたものだ。

卒業してからも周辺に寄るときは時々行き、最後に行ったのは私は半年前、二人で行ったのはもう2、3年前か。
私が行くたびにその絵里との会話で話題にするので、もう10年前に通った場所とはいえ、二人の中ではまだなんとなく「現役」の店になっている。

「何だか無性に食べたくなっちゃったの。」

「××軒じゃなきゃだめなのか。」

「じゃなきゃだめなの。」

「分かった…」

まだ完全に起きていない頭と体には大義といえば大義だった。
しかし、今日の絵里にとって大切なことだろうと理解した。
そして今日の私たちにとって。

「久しぶりに、あの辺散歩してみようか。」

「うん。そうしよう。」

目の前には、昨日のことなど、いや1月のあの日から昨日までのことなど何もなかったような、屈託のない絵里の微笑みがあった。