96. 営業感覚

小野寺という男がその社会的地位も含めて絵里の中で決定的に重みを増していくのは、プレイの部分を別にしても、やはり彼のホームグラウンドで会うようになっていってからであったことは、後になってからの絵里の話から分かった。

絵里は、現地での小野寺の地方の顔役ぶりを見て「嫉妬した」というような言い方をしたことがある。
嫉妬というのは面白い言葉遣いだと思った。
私の立場になって嫉妬してくれたのかという問いに、絵里は、二人の立場からの嫉妬だというように答えた。
意味合いはなんとなく分かるような分からないような気がしたが、それ以上は詳しくは追求しなかった。
私といる絵里が、小野寺といる絵里に嫉妬するということなのか。
いずれにせよ嫉妬という感情にはもともと羨望が含まれているはずだ。

その一方で、絵里は小野寺に対し、私のことについてかなり過大な説明をしていた。

新進気鋭の学術書の翻訳家。
物は言いようでまんざら嘘ではないし、少々イメージとしてくたびれかけてきたとはいえ、友人、知人の間にもとりあえずそれで通ってきていた。
しかし、それに加え、絵里は、私が現実にはしがない技術翻訳で自分の食い扶持の分くらいをどうにか稼いでいるという事実を伝える代りに、シンクタンク系の複数の組織のために、英文のソースから作成したレポートを書いて高収入を得ているのだというような説明をしていた。

ただし、このことを知ったのは、私と小野寺の間に絵里を通じて一種の人間関係が出ていくときにあたり、絵里から予備知識として告白された時のずいぶん後の話である。
実際に最初小野寺も私のことを、そのような人間として捉え、接してきた。

小野寺自身が絵里の作り上げた私の像に、ある種のコンプレックスを持っていたことも後から知る。
小野寺のことを少し知るようになる前は、そういう学究的な仕事に敬意を払うようなこととは無縁な人間を勝手にイメージしていたので、少なからず驚いた。

そんなことを知る由もないその時の私は、自分の中で勝手に作り上げた彼我の落差を心の中で増幅しながら、劣等感のかたまりとなって、 精神的に自滅していたのだった。

絵里が私のことを小野寺に過大に話したのは 、私に惨めな役割を与えたくないという彼女なり配慮があったと思う。

が、それだけでなはなく、絵里なりの打算もあっただろう。
意地悪で露骨な言い方をすれば、私を社会的にも経済的にも話の中で吊り上げるのは、自分の値を釣り上げることでもあった。
私という男の地位が下がれば下がるほど、自分が値踏みされることを知っていただろう。
経済的な話が入ればなおさらのことだ。
それは計算というよりも、本能的なレベルのものではなかろうか。

プレイへの同意に関しても、私のことが二人の間でしだいに話題になってきたときに、私が苦渋の上で決断しているというのではなく、性について明くリベルタンである私が、鷹揚な遊び心でOKしているというように理解させる説明をしていた。

「そんなことを気にする人じゃない」と絵里は、小野寺が私という存在をどう思っているかについての私の質問に答えた。
実は、正確な文言は分からないにしても、小野寺に対して私のことについて、そのように言っていたことになる。

プレイの撮影についても、だから、寝取られている男の悲痛な叫びというより、性の遊び心を持った人間からの要求、一種のジャブと小野寺は捉えたらしい。
提案を伝える絵里の口調にもそのように思わせるところがあったのだろう。
考えてみれば、それがいちばん三人にとって心理的軋轢のない説明ではある。
逆にそのことが、小野寺にやはり一種変則的なお返しのジャブを出させることととなったとは、これも大分後になって知ることである。

こうした絵里の態度は、意図した効果やそうでない副次的な効果の部分も含め、いろんな意味で二人の男を競わせる格好になっていた。

小野寺が絵里をことさらにいいレストランに連れ回したのは、私との生活の中でワインや美食が大きな地位を占めていることを絵里の話を通じて知っていたのがその理由の一部であることは、後から分かった。

高学歴、高収入で知的で性について開放的な考えを持ち、エピキュリアンの生活を、自由な結びつきと愛情とともに謳歌しているパートナー。
そんな「向こう側」の男に対し、ある時点から小野寺がはっきりと対抗意識を抱くようになり、それに伴ない、絵里に対する関与が本格的で、真剣味を帯びたものになっていったのは確かといえる。
後の小野寺の言葉を信じるならば、そのことは彼自身にさえも、意外な感情の発展だったという。
端的に言うと、「嫉妬」という言葉がある時に小野寺自身の口から出た。
小野寺もある意味、期せずして絵里に挑発された部分があった。

こうしたことは、後から分かれば自然な物事の進行ではある。
しかし半分は無意識のうちにその枠組みを作り出した張本人の絵里でさえも、そのような発展にまでつながるとは予見しなかっただろう。
私にいたってはそうした発展についてある時までずっと蚊帳の外であった。

自分を取り囲む二人の男を競わせるというのは、ある種の女性に備わった本能的なものもあるだろう。
しかしこの件について、絵里の場合は職業的な習性に条件づけられたところも多分にあった。

自分の会社の 商品 — 絵里のばあいシステムなのだが — のセールストークで、どれほど有力顧客から引き合いがきているかを、ブラフも含めて匂わせながら駆け引きする、そんな営業感覚が、絵里が私について小野寺に語るとき、作動していたのではないかと容易に想像できる。

そして、ある時から私にもその営業感覚が向けられたと言えるのだろうか。

絵里の打算的な営業感覚を責めようという気持は、過去のその時点でも起きなかったし、今でもない。

大学時代、ジーンズにトレーナーで勉強しか知らず、二人でラーメンをすすっていた絵里が、いつの間にそのように成長し、私のパートナーになったことについて誇らしい気さえしたし、今でもする。

絵里は、売れない芸術家の糟糠の妻のポジションになりかけていくのをある時にきっぱり拒否した。

「私だけはあなたの仕事を理解している。世間が理解しないだけ。でもいつか分かってくれる時が来るから…。」
そんな馴れ合いの中で多くの男が甘え、ずるずると坂を滑り落ちて行った。

その罠に陥いるには、絵里は賢明すぎたし、ビジネスの修羅場をかいくぐり世間を知り過ぎていた。
私はそのことによって結果的に救われた。
そのことにいくら感謝しても感謝しきれない。

もし絵里に過ちがあったとしたら、自分の営業感覚によって、本人をも含む三人の人間の中に招き入れられる効果の射程、それにより三人を巻き込み綾成していく物事の予期できない発展について、あまりに無邪気であった点だろう。