94. 次

投稿者: ゆきお

「ねえ次の本どうなってるの?」

「まあ、企画はほとんど通りそうだけど。」

「出るのいつごろ?」

「そうだね、企画が通ったら、あとはこっちの翻訳の進行しだいかな。」

「どうなの、それで、きみのほうのめどは?」

「まあ、今年じゅうにはこっちの作業をなんとか…。」

タイミングが大事なベストセラーものと違って、この分野は締切があまり厳しくなく、企画が一度まとまってしまえば、あとは1年とか2年のスパンで翻訳者の仕事の進行しだいということろがある。
大学の教員がやっているケースが多いので、編集のほうも慣習からか、よほど旬の本か、目鼻がついて具体的なラインナップに入ったり、いよいよ出版予告が出るなどの段階で校正に入っているなどでない限り、あまりうるさく催促しない。
それに甘えて、私のほうも2年以上ずるずるにひっぱった仕事があり、年末までというのも、一種の希望的観測だった。
それに、私のばあい、そうした仕事に2か月とか集中できればいいが、食うための技術翻訳の合い間にやっているので、物理的な限界もある。
まあ、これは本業のある大学の教員の場合もある意味事情は似たようなものだ。

私の口調に滲むそんな思いを見越したように絵里が言う。

「ねえ、絶対出してね。」

「それは絶対出すけどさ。」

「年末とかじゃなくて、もっと早く出来ればいいなぁ。私、早く読みたい。…それに出しちゃえば、また次の本の企画にとりかかれるんでしょう。」

絵里の言うことの裏を返せば、進行中の仕事のめどがつかない限り、次の企画もへったくれもないということで、どのくらいの本が出せるかは、ひとえに自分の仕事ぶりにかかっている。

「私、きみにもっといい仕事してほしい。」

「それはぼくもそうだけどさ。」

「私、もっときみの訳した本を読みたい。それに本屋さんに、きみの名前の出てる本が並んでるのを見たい。きみさえそう思えばいいんでしょう。」

「最終的にはそうなんだけど…そんなに簡単じゃないんだよ。」

今まで3つの出版社と仕事してきたが、新しい企画を通せるのはもう主に1社で、1社とは編集者の代がわりでほぼ縁が切れかけており、もう1社はそろそろこちらからどうにかアクティブな関係を再度掘り起こさなければ、という感じになっている。

「きみのやることってほんとは、○○や××なんかに、絶対に負けないのに…」

学術物と一般物の中間くらいの領域で有名な学究的な翻訳家の名前をひきあいに出して、不満そうに言う。

そこには、絵里の私に対する買いかぶりの部分もある。
確かに、そうした有名翻訳家が、世評とは裏腹に、明らさまの誤訳をも含め、有り得ない質の仕事をしているようすや、一知半解の解釈をしているろころについて、目についたときに、絵里と酒の肴に話したことはあった。
しかし、公平に見れば、誰にでもミスや、多忙による仕事の質の低下は避けれらないし、私とて同じような仕事量をこなしていればどうだか分からない。

「たださ、彼らは、ぼくと違って、コアな専門家の目から見ればちょっとなあ思うところも分ってて引き受けながら 、というか引き受けさせられちゃってるんだけど、とにかくある程度のレベルの仕事を続けてたくさんやってるっていうのが重要なんだよ。人にはよっては下訳だって使っているだろうけど、それは責められないよ。」

「それは、そうでしょうけど…」

この手の仕事というものは、丁寧にやればやるほどそれが報われるとは限らない。
見切りをつけてどんどんやるというのも重要な部分ではある。
私の場合、「良心的」と言えば聞こえはいいが、結局のところそういう見切る勇気がなく、物の分かる担当の編集者や友人知人にだけには評価が高いが、結局それだけのことで、業界の片隅でひっそり生きている格好になっている。

絵里はなおも不満そうで、何某や何某の翻訳談義にからめたエッセイが、私がいつも絵里と食事のおりにしゃべっていることに比していかにつまらなかったかということを話し出した。

「翻訳だけでなくて、きみの知識や経験を使ったエッセイとかも出せればいいよね。それで名前が出て、売れる本ももっと翻訳できれば。」

「あのさ、そんなふうに一般受けする大事な翻訳の仕事がきたり、エッセーの仕事のためには、××大学教授、准教授という肩書は重要なのさ、出版社にとっても。みんなそうだろう。フリーだけで、ぼくの分野でオーソリティーっていうのは今の時代、基本的にはありえないよ。」

「それは、そうかもしれないけど…。」

「まあ、僕ができることといえば、そういう売れる本は下訳の仕事か、せいぜい、有名だけど時間がない人の名前を立ててその共訳者という形でやることかな。だけど、もう××先生もほとんど引退ぎみだから、つてがね。エッセーなんて、ブログとがせいぜいだな。」

××先生というのは、私の恩師筋の引退した教授で、私にこの手の仕事を最初に回してくれた恩人である。

「そんなのくやしくない? 私、きみがもっと、自分が前に出る仕事をしてほしい。…難しいかもしれないけどきみなら絶対やれる。きみのためだけでなく、私のためにもお願い。」
絵里の語調にだんだん感情的な力が入ってきた。

「まあ、少しづつ努力してみようとは思っているけどね。」
歯切れの悪い返事になっているのは明かだ。

「営業努力も必要よね。」

「まあ、そうなんだけど。」

「今度の本、出たら、小野寺さんに○○の全職員に読ませるためにドンと引き取らせちゃおうか。」

「はあ!? 18世紀の話だぜ。しかも思想というか哲学というか。」

「『18世紀の人の考えに学ぶ啓発本』という触れ込みでさ。」
絵里がいたずらっぽく笑う。

冗談にしてもその絵里の発想に唖然とした。

「ったく…さすが、枕営業で大物プロジェクトとってくる奴は発想が違うよ。」

絵里がぷっと噴き出した。
よほど受けたのか、けたけた笑いながら返してくる。

「きみも自分のことなんだから、枕でも座布団でもなんでも営業努力しなさいよ。」

「誰にさ」

「前にいたNさんみたいな。そういうきみのことに特別な興味のある編集者っていないの。」

Nさんとは、以前私との間に恋愛感情に似た個人的好意が通じあっているのが絵里に悟られ、二人の間に小さな波風をもたらす原因となった女性編集者だ。
Nさん本人にはそんなことは露しらずの話だし、もう業界にはいない。
まだそんなこと根に持って嫉妬しているのかと、女の記憶力のよさに恐れ入った。

私の周りでは、もう編集者との個人的関係で仕事が進む時代はほとんど終わりかけていた。
つてのあった出版社との編集者もだんだんとメールだけの関係になり、代がわりした担当者とは、もう一面識もないまま、出版まで仕事したこともある。
むしろ絵里のいるような世界のビジネスにこそ、今度の彼女の作戦のようなものがが通じるくらい、古いウェットなものがまだ保存されているのかもしれない。

そういうことをひとしきり話すと、

「私はもっとやりようがあると思うんだけどな。でも、そういうのが、きみのいいとこなんだけどさ…。」

そう言いながら、それでもやはり不満そうに手元の本の例のページをいとおしそうに眺めている。

「ねえ、この本さ、懐かしいと思う?」
ページに目を落としながらポツリと言った。

「そりゃ、懐かしいよ。そんなこともあったよね。」

「私ね、懐しいって思っちゃ負けだと思ってるの。」

「…」

「この本をさ、やってたときの気持をきみ、教えてくれたよね。私、死ぬほど嬉しかった。私の人生の中でぜったいに忘れられない出来事…。でもね、それをね、もう遠い昔のこと、そんなこともあったっていうことにしてしまっちゃ、おしまいだと思うの。」

「…」

「次の本も絶対に、絶対にね、あの時と同じ気持で出して欲しい。できるだけ早く。あのときの気持があればできるはず。そのアクロスティックもまたやって。今度は『えり愛してる』とかもっと大胆にやってよ。」

「またかよ?」

「そうよ、また。」

「…」

「約束して…。」

絵里の正面からの真剣な眼差しに応えるためには、私はゆっくり頷くしかなかった。