100. 名刺

投稿者: ゆきお

「エイプリルフール忘れたね。」

「私も」

「いろんなことがあったからね。」
1月からの全部がエイプリルフールであってもいいくらいだった。

「これはエイプリルフールじゃないからね。」
先ほど、私が絵里からもらいテーブルの上の目の前に置いてある名刺のほうに絵里の視線が行く。

それを合図のように、シャンパングラスをお互い手にして乾杯する。

「おめでとう! 」 – 「ありがとう!」

絵里が昇進した。

もちろんもともと内示があって分かってはいたのだが、やはり正式のものになると嬉しさはひとしおだ。
会社で特に5時以降の行事もないということで、久々に外で二人で食事することにし、自宅と同じエリアにあるちょっとしゃれたフレンチレストランを急遽予約して待合せた。

シャンパンのボトルを奮発した。
月末に納入した仕事のギャラはまだ先だし、絵里が増えた手取りの給料を受け取るのもやはり月の終りだが、ここはやはりそれを先どりしてでもそれなりに祝いたかった。

絵里の名刺をもう一度手にとる。
業界独特のカタカナ用語でよく分からないが、もともとのものよりワンランク上の肩書であることは想像できた。

最近の社内機構の改革に触れながら絵里が丁寧に説明してくれるが、やはり私にはピンとこない。
部下が増えたこと、その中には絵里が数年前までそうだった主任級の社員も加わったという、その部分の説明でなんとなく実感の中で測れた。

そのランクの上った肩書の隣に新しい行が付け加わっていた。

“プロジェクトマネージャ補佐”

「ところで、このプロジェクトマネージャ補佐ってどういうこと。役職が二つになったってこと。」

「そういうのともちょっと違うんだけど…元々の部署での役職は最初に書いてあるものなんだけど、これは今度のプロジェクトへの私の関わりを示したもの。プロジェクトは母体がいろんな部署の人で構成されているのね。プロジェクトマネージャって知ってるよね」

「プロジェクトの全体を統括管理する。いちばん最高責任者?」

「そう。」

「絵里はなれないの?」

「まさか」
笑いながら言う。
「それは技術的な部分も全部含んでの統括だから、システムエンジニアの経験豊富な人がなるものなの。」

「じゃあ、その人のアシスタントということ」

「究極的に言うと、まあそういうことなんだけと、その人のアシストをしながら仕事するというのとは違うのよ…。」

絵里が少し詳しく補足説明してくれた。
案件の受注が正式に決った段階で、大きな仕事のときの慣例としてそうであるように、社内的にプロジェクトチームが発足した。
絵里の役職は本来的には複数の営業先を相手とするもので、営業部の中でその役割は維持され、役職が一ランク上ったのでその部分もさらに強く期待されるようになった。
しかししばらくは、その部分は部下たちへの指示を統括する形で進められ、どちらかというとプロジェクトの中で大きな役割を果すことを期待されて、プロジェクトチームへも正式に配属された。
顧客のニーズを掘り起こし、受注にまで漕ぎつけた人物として、引き続き、顧客のほうへの窓口責任者となり、プロジェクトの中で開発チームと顧客の間の調整を引き受ける役として位置づけられた。
絵里が顧客との間のパイプ役となり、プロジェクト進行について、その視点からのアドヴァイスとともに、意思決定に積極的に係ってほしいというのは、プロジェクトマネージャの希望でもあった。
絵里も自分でそれを当然と思っていた。
特に、パイロットプロジェクト終了後に、その評価を受けて、次の大きなプロジェクトへ繋げる話が控えているので、ここで窓口責任者を手離すことは、次の受注の事実の手柄を手離すことに等しい…。

正式に決ったことでほっとしたのか、絵里はいつになく多弁で、社内でもいろいろな人間の思惑がからまりあっていたこと、絵里のその心づもりもやや危うくなりかけたことなどについても具体的に話してくれたが、だいたいはそのようなところだ。

改めて、絵里が組織の複雑な政治の中で上手に、そして先のことまで見越して冷静に動いているようすに舌を巻いた。

絵里の確保に積極的だったというプロジェクトマネージャと絵里の関係についても気にはなったが、あまりあれこれ心配して、自ら取り越し苦労してもしょうがない。
その部分についてはこちらからは何も話題にしなかった。

気になるのはやはり小野寺との関係のほうだ。
絵里が触れなかったことについて質問した。

「絵里が窓口になることは、小野寺氏のほうでも希望したんだよね。」

「まあ、そうだけど、いくらなんでもそれについて、会社のほうにその希望を告げたりはしないわ。」

「絵里直接には続けて欲しいと言ったんでしょ。」

「はっきりそういう話題にはならなかったけどね…。」

絵里が最初からそう希望していた以上、二人の間で話題にするまでもない暗黙の大前提であったのだろうと気づいた。
する意味のない質問で、ばかな話題を切り出してしまったものだと我ながら思ったけど、訊かずにはいられない。

「ということは、絵里は小野寺氏ともやりとりしながら仕事を進めていくってわけ。」

「んっとね、向こうの会社だって、ちゃんと担当者がいるわけだから、仕事は普通には私とその担当者の間。小野寺さんとのコンタクトがあるとすれば、それは節目、節目で、それは今までどおり。逆に仕事が動き出したのだから、彼が自分で出る幕は少なくなるの。何か担当者の間で手に負えないような大問題でも出てこない限りね。」

「なるほどね…。」

プレイの部分を離れても、絵里が小野寺と仕事上の関りを持っていることが、改めて実感された。
それが継続していくこと、そして、絵里の説明にも係らず、おそらくそして強化されていくのだということも漠然とながら思った。

「それより、きみの翻訳の話…。」

絵里のほうからその話題を打ち切るように、話は私の新しい翻訳のことに移っていった。

絵里に自分のほうの「プロジェクト」の説明をしながらも、「プレイは6月に終了するはずだが、二人の間の仕事はさらに続くのだ」という、考えてみれば最初から分っていたはずの事実が頭の片隅を離れなくなった。

テーブルの上に置きっぱなしになっている目の前の絵里の名刺が、私の視角に入るたびに、それをきっぱり主張した。
メインの料理が来たのをきっかけに、名刺を胸のポケットにゆっくりとしまった。
それとともに、その事実も胸にしまい、今夜はシャンパンとともに二人の明い未来への希望を楽しもうと思った。

昇進、シャンパン、笑い、美味な鴨料理、希望、しゃれた会話、テーブルの上のろうそくの光、絵里の知的で朗らかな顔…。
胸にしまったものを忘れられた限りにおいて、そして、絵里がまだ生理中で禁忌日であったことを別にすれば、カップルとしてパーフェクトに幸せな夜を過したとはいえる。