111. 美術愛好家

絵里は、小野寺が美術鑑賞を趣味としてプロフィールに公表しているその実質を象徴する事柄を、3回目のプレイの日の午後の一齣として語ってくれた。

「実は小野寺さんの会社のビルの個人事務所というところに、空港からホテルへ行く間に案内されたのね…」

先に私のほうで一続きに再構成した、空港からの絵里の一連の行動について、最初に具体的に語られた部分は、実は次のような一齣であった。

………

絵里が小野寺の事務所に行くと、応接室に一枚のリトグラフが飾ってあるのが目についた。

筆致に覚えがあるような気がしたが、思い出せない。

小野寺がコーヒーを持ってくると言って出ていっている間に、立ち上がり近寄って見た。
部数と通しナンバー鉛筆書きのサインがあるのが分かった。

p. del…

筆記体の判読は難しかったが、辿れる文字と、画風とが結びつき一人の画家の名前が思い出された。

ポール・デルヴォー。

そのベルギーの画家の展示会には一度行ったことがある。
胸を露にした女性が必ずといっていいほど登場する幻想的な絵のいくつかが思い出された。
そこに飾ってある絵は、展覧会で見たそうした典型的なデルヴォーのものではなく、風景と着衣の女性が主体だった。

コーヒーを持って戻ってきた小野寺に、

「デルヴォーですね。」

と言うと、

「そうです。風景のタッチだけでも特長がありますよね。」

作家名を当てたことに、社交辞令のお世辞を言うわけでもなく、知ってるのはいかにも当然というような、そんな答が返ってきた。

「オリジナルなんですね。」

「リトグラフですから、私なんかにもなんとか。日本はファンが多いからけっこう入ってきてるんですよ。」

「私、デルヴォーっていうと、女性の裸ばっかりかと思ってました。」

「少ないけどこういう、その面でいうと地味なのもあるんですよ。さすがに、こういうところに飾るのはこのくらいが。」

「他にもお持ちなんですか?」

「これだけです。ここに飾れないような、ばんと胸が出ているのを一つ自宅に、というのも考えなかったことはないけど、あんまりコレクションの趣味はないんです。画集や、あるいは展覧会で見るので満足してます。だから、好きだけど、オリジナルはこれ一つ。」

金にものを言わせて青髭公みたいにデルヴォーの胸をあらわにした絵の数々に自宅で囲まれている男の図を一瞬想像したが、そういうわけではないらしい。

その絵についての蘊蓄をひとしきり聴き、席に戻りかけたとき、直交する壁のひっそりとした場所に飾っている小さな絵が目についた。

筆致は似ていなくもないが、すごく地味だ。

こちらはリトグラフではなく、オリジナルの水彩と見えた。
こんどは誰だろうと思いながら、近づいてみる。

T. Onod…

「小野寺さんのですか?」

意外さに打たれたのを気づかれないように、振り返って言うと、小野寺がうなずいた。
絵里の表現によると、いたずらを見つけられた少年のような、はにかみの裏に得意さを隠した表情だったという。

「お恥かしいけど、昔描いたもので。だけど、誰が作者かなんか気にする人は少ないですよ。ここにもう5年間飾ってあるけど、絵里さんで何人めかですね。たいていの人は、一瞥したまま素通りしてしまう。」

「よくお描きになるんですか?」

「高校から、大学にかけて好きで描いてました。美大に行こうと思ったこともあったけど、そんな才能はないし、親の言うとおりに普通の学部に進みました。」

「これも高校か大学時代の?」

「いや、これは10年ほど前。もう一度始めようと思ったんですが、さすがに仕事が忙しくなるとさぼってしまいました。」

「また続けられるといいですね。油絵もなさるんですか。」

「油絵は好きじゃなくて、もっぱら水彩ですね。油絵は時間がかかるので。こらえしょうがないというか。」

「ちょっと似てますね。デルヴォーに。」

「そうかもしれません。十代のときから好きですから。」

「デルヴォーみたいに、女の人は描かないんですか?」

「描きません。人物を描くのは苦手なんです。それに女の人の裸をみて、ただ描くだけなんて、私には拷問みたいのものですから。」

会話が危ないものになってきたので、コーヒーを飲み干し会話を打ち切る身振りをした。
そこで、小野寺のほうから事務所を出る提案が出た…。

……

空港からの一部始終を前後しながらも話し出す前に、私が最初に絵里から聞いたのは、小野寺のホームページの話を糸口にした、こうした話だった。
この後の買い物の件を含む一連の話を、絵里の言葉で聞いたり読んだりしたのは、それから何日かしてからのことだ。
だから私は、絵里と小野寺とのショッピングやその後の行動について、小野寺の実際の顔も、視覚的なセンスのある審美家の像をも思い浮かべながら聞き、読むこととなった。

絵里を通して向こう側にいるのが、思ったより複雑な人物だというのがわかってきた。
知的にもあなどれない相手だというのが意識されてきた。

私は中小企業の社長というものに対するある種の社会的・文化的偏見によるステレオタイプで自分で勝手に作った仮想敵を相手にとしていたことになる。
そしてその架空の対立の中で、自分の知的優越感に最後の砦のようにしがみついていた。
そうした認識の誤りについて私はすでに薄々とは気づいていたが、3回目のプレイをめぐる絵里の話は、私を、そのような一人よがりの安住の枠組みから、決定的に引きずり出した。

絵里が小野寺に人間的魅力を感じつつあるのはその口調からも明らかであった。
そのことにしだいに否定しようもなく気づく一方で、私も小野寺にしだいに興味をひかれていく自分を見出していた。