136. 庇護

投稿者: ゆきお

絵里が語る小野寺の話を聞いているうちに、私は彼女が以前に話してくれた彼女の上司との仕事上のエピソードを思い出していた。
絵里が今の会社に入社して二年目に起ったことだ。

絵里がまとめた企画案で別の部署と揉めかけた。
絵里が取引先との営業で仕様のアウトラインを決めていったときに、上の決裁を通すようなこともない些細なことだと独自に判断して盛り込んだ部分が問題になった。
他部署の同年代の男性同僚に個人的なメモのつもりで送ったものに強いクレームが来た。

末端の担当者どうしの内々の根回しのはずだったのに、先方の部署で他の同僚にも見せての上でのやりかたは、一種の悪意があってとのことしか思えないが、ともかくも、まずいことになったと、自分の上司のとろへ事態を報告しに行った。
先走ってしまったミスを謝罪し、善後策を相談した。
彼が資料に目を通している間、譴責の言葉を不安に待ち受けた。

「案自体は、君の考えで何も悪くない。お隣の面子の問題だけだが、ただその面子の部分に関しては、どうにかケアしたほうがいい。しかし軽々しく謝ると君のこれからの立場が弱くなる。もともと俺の意向で練った案だということにして、これは俺が預かる。俺の責任でどうにかするから、心配しなくていい。」

彼はあっさりとそんなふうに言ったという。

二つの部署の間では何だかんだとあったらしいが、上のレベルで解決した。
その間、自分の上司が最初から自分の考えだと通したらしいというのは、後でバツ悪そうに謝ってきたその別部署の同僚の口振りで分かった。

「結局、○○さんがね、全部かぶってくれたのよ。ちょっと惚れた…。××とは大違い。」

前の勤め先に、部下に不都合なことをなすりつけて責任回避しようとする上司がいたこともあって、絵里はその男を引き合いに出しながら、現在の上司の男気に敬服の言葉を発した。

「かっこいいね。今度はそういう度量の大きい上司がいてよかったよ。」
絵里がその件で神経質に悩むのをリアルタイムで付き合わされていたので、私も心からほっとしながらそう言った。

脈絡もなくその会話が思い出されると、絵里のある性向について思いを巡らすきっかけとなった。

表の面では独立心の強い彼女だが、庇護されることを望む性向を持ち合わせていることに、私は以前から気がついてはいた。

大学時代、論文や研究室での人間関係の中では、私も研究上の「先輩」として、最初その役割を担っていた。
絵里と私と同級生ではある。
しかし、最初から研究を目指していた私と、成績がよかったので周りに勧められるまま何となく大学院に進学した彼女とでは、おのずから研究への取り組みの姿勢が違い、その世界の中で、絵里には私が「大人」見えていたのは間違いない。

しかし、歩む道を二人異にし、絵里がビジネスの世界を見るようになって、その関係がしだいに変化していった。
そしてある時多くの面で逆転することとなった。
とはいえ、なんらかの点で絵里が私に庇護者の役割を求めていることには依然変りなはかった。
しかし、私が絵里に与える庇護といえば、絵里のすることを見守り、家事の点で日常を楽にしてやり、疲れたときに精神的な安息を与え、仕事の悩みについて距離を置いた客観的なアドヴァイスを与えるということに限られてきた。

「きみがどっしり見守ってくれるから私やっていける。」
生活上でいろいろな引け目を感じる私に、絵里は何度もそう言ってくれた。

しかし、この一件が始まってから、私のこの位置が揺らいできていた。
「どっしり見守る」というポジションがとれなくなっていた。

苛立った言葉を投げ掛けあったあと、一人の時の私は、絵里にその日おこったことを反復しながら、彼女の気持を考えた。

その日最初から過度のストレスにさらされていたに違いない。
思い掛けない事の連続のあと、新しい展開を見せた性の行為も強いストレス与えたことは絵里自身の言葉の端々から分かった。
その時間をずっと貫いて、絵里の心の中には私から課せられた任務があった。
課せられたというより、二人の事として私との間で約束し引き受けた任務があった。

その任務を果たすのが不可能なことを絵里はすぐに小野寺との話の中ですぐに思い知らされた。

その絵里を私は追いつめていた。

「だってそのとき私は彼といて、きみはそこにいなかった。だから見るものがずれているころはあると思う」
絵里が示唆したように認識の決定的なギャップがあった。

もともと私との間に心理的な緊張を抱えていたところに、小野寺はその緊張を、極大化させながら、心と肉体を追い込み、すべての緊張がはじけるところへと追い上げた。
心の中の矛盾、心と体の矛盾の中で極限に引き裂かれた存在が、性の絶頂という一つ点に収斂し、そしてはじけた。
それらの圧力を受け、変形され、変容させられた一人の女性の心は、どこに安定を求めればよいのか。
快楽のあとの休息が、安らぎの瞬間になることは容易に理解できる。
肉体的な庇護のポーズがあった。
今更、心を悩ませるようなことを考え、精神的な緊張の状態に戻ることを誰が求めるだろうか。
肉体の庇護に安らぎ見いだした心は、やがて差し出された精神的な庇護へ安住を求めていくだろう。

絵里は庇護を必要とし、それを求めた。
その役を私は果せなかった。
いつのまに絵里がそれから庇護されるべき対象となっていた。

私はそのように理解し、それを事実起こったことして認めざるを得なかった。