137. 歩み寄り

投稿者: ゆきお

「ごめんなさい、私やっぱり変だった。」

「いや、ぼくこそ、絵里の立場をよく考えてなかった。」

苛立ちの言葉を交した翌日、どちらからともなく歩み寄る会話となった。

しかし、その時もそうだったが、後から思い出しても、そのときにその歩み寄りには、どこかに空疎なものがあるという思いを打ち消せなかった。
足元に埋められない溝があるのを意識しながら、そこを覗き込むことを止め、微笑みながら見つめ合う…そんな感じだった。

「やっぱり、私どうかしてたと思う。ごめんなさい。」

「いや、絵里だけじゃない、誰だってそうなるさ。」

「私、きみに話すのが怖い…」

「何が怖いの?」

「これ以上聞いたら、私のことが嫌になってしまうかもしれないから。」

「これ以上って、そんなことがあったの?」

絵里は曖昧な顔をした。
じっと目を伏せているその顔が、肯定の頷に見えた。

「だってもうすでにいろんなことがあっただろ。もう驚くことはないよ。
どんなプレイがあったって。嫌になるわけないじゃないか。今さら。」

そう言いながら佳美という女が責めを受ける姿を思い出した。

「そうね…。」

そいう言った絵里はやはり曖昧な顔をしていた。

SMホテルでのプレイではないのかもしれないとその時思った。

「そのバーで何かあったってこと。」

「何かあったっていう訳じゃないんだけど…」

バーの光景を思い浮かべながら、一種の露出プレーのようなことが行なわれたのかもしれない、と思った。
しかし、それは契約書で禁じられているはずだ。
しかし、二人が男女の中であることを伺わせるような素振りでいることはできる一種のグレーゾーンがある。
そのグレーゾーンのぎりぎりのところまで行ったのだろうか。

そう思いながら、それとは別に、絵里の回想の中の時系列で、その後しばらくして私がメールを受け取とったということについて考えた。

「あのメールに関係あること?」

覚悟して聞いた。
私が「叱責」と捉えた絵里のメールが。小野寺の監視の元に書かれたという可能性は、これまでの経緯から十分あり得ることだった。
あるいはその場で二人で検討しながら書かれたのか。
そんな事態も覚悟しなければならないと思った。

「直接は関係ないわ。」

安堵の気持とともに、不可解さの呼ぶ胸騒ぎを感じた。

「じゃあなんなの。」

「私どうかしてたっていうのは、認める。きみに謝らないといけない。だけど約束して、嫌にならないで。みんな話すってあのとき約束したから話してるの。だけど…」

「約束するよ。ぼくは何でも聞きたい。」

絵里はぽつり、ぽつりと話し出した。

——–

小野寺の説得を聞いて、後で絵里からメールするということになった。
うまく書けないんだったら自分の言葉をそのまま使っていいと小野寺は言った。

つまり絵里にとって精神的に楽な解決法がそれだということにお互いの間で了解ができていたことになる。
それを話すときの絵里の口振りから、やはり、私と絵里の間で、そうしたことの意味づけ、重大性について認識のギャップがあると思った。
しかし、それについてもう拘ったり、突っ込んだりはしなかった。
それよりも、絵里自身が気に病んでいるらしい話とはいったい何なのか…。

食事を一旦始めようとしたことでもあるし、とりあえずゆっくり食事しようということになった。
そして、あとで例のSMホテルに行く前に、一度元のビジネスホテルに立ち寄り、絵里がメールするということになった。

まだ全部事は済んではいないが、やるべき事 — 私の自虐的な語彙では「対策案」ということになるが — について方針が決ったということで、ある種の安堵感が訪れた。

ビジネスでインフォーマルの席で交渉があらかたまとまり、あとは事務的に文書にするだけという認識で改めて乾杯するときの安堵感のよう空気が流れていることを想像した。
私も編集者との間でそういうことはあった。

そう指摘すると、「そうかも」と絵里は言った。

小野寺がソファから乗り出しえみに声をかけると、えみがやってきて、小野寺の指示を聞くと、料理を運んできた。

食事に加わるよう小野寺がえみを誘うと、位置関係が自分のいない間に変っていることはあたりまえのように、何も言わずに、今度は二人の目の前に座った。

三人で赤ワインの続きを飲み、前菜として運ばれてきた生ハム類やフォワグラのパテの類いをつまんだ。

会話は小野寺とえみの主導で進められ、映画の話や、えみが最近した旅行のみやげ話で盛り上がった。
絵里に気を遣って、地元の話や内輪の知人の話をするのを避けているらしく、絵里にもついていけるような会話だった。
えみの巧な話術に、社交辞令で付き合っていながらも、話に引き込まれ、ユーモアのある会話に三人の間で笑いがあり、先ほどまでの緊張が解れてきた。

安堵感からか、酔いがいつもより早く回るのを感じた。
夜の酒場に溶け込んでいくような気がした。
ただ、何か自分にだけある違和感は消えなかった。
その違和感も少しづつ消え、ソファに怠く体が沈んでくる気配を自分で感じた。
このままアルコールが入ると、メールを書く勇気が失われてずぶずぶと時間が過ぎていくと思った。
真夜中にメールするということになるのか。
最悪のばあい今夜はメールせずに、翌日でもいいかもという気分になってしまうかもしれないと思った。

その流れに最後の力を振り絞って抗うように、東京でじりじりと返事を待っているだろう私のことがだんだんと強く意識されてきた。

えみがいるのは気になったが、思い切って言った。

「小野寺さん、例の報告、遅くならないうちに先に済ましておこうと思うんですけど…、申し訳ないですけど、私ちょっとだけ失礼して。」

「あ、ごめんなさい。そうですね。そうしたほうがいいでしょう。こちらのことはお気になさらずに、済ませてきてください。」

小野寺がどういう態度に出るかどうか不安だったので、もう少し待てとも、自分がいっしょに行くとも言われなかったことに、拍子抜けした。

「タクシー、手配しましょう。」
小野寺はえみに言って、店の電話でタクシーを呼びにいかせた。

「すみません。えみさん。」

「いえ、休みの日にこんな時間まで、お仕事大変ですね。」
えみが社交辞令的に言う。

二人がどんな関係か、どんな仕事の関係かどうか詮索しようともせず、絵里が仕事で来ているという前提の認識に切り換えて接してくれる、えみの態度は、いかにも接客のプロだった。

「いえ、慣れてますから。」
当たり障りのない言葉で返した。

行く先を指示するのに、小野寺はホテルの名前でなく、おおざっぱな住所を告げた。
気を使ってこのことかもしれないが、むしろ、その所在地の名は近くの例のSMホテルのことを意識させた。
カウンターの電話でタクシーのセンター相手にえみの口から告げられるその所在地名に、まるで、ママだけでなく他の客も絵里のこの町への来訪の目的が暴露されているような気持になり、どぎまぎした。

「すぐに来ますって。」
えみがカウンターから戻って言いにきた。

えみがソファには戻らないことで、掛け値なしにすぐだということが分かった。
一度を引っ込んだえみが、絵里のコートを手にしてきた。
コートを着て待っている間に、タクシーが来た。

「じゃあ、さっき決めたとおり。」
小野寺が言った。
(「さっきの通り」なのか「さっき言ったとおり」なのか、その時言われた正確な表現に拘り、何度も問い直して、私は絵里からその言葉を彼女の記憶から無理矢理に引き出した。)

えみがバーの外まで送ってくれた。
カウンターのママに会釈してワインバーを出た。

タクシーの運転手にホテルの名前を告げると、問い直すこともなく出発した。
タクシーに一人揺られ夜の街を見た。
朝到着してから、はじめて一人で行動していると思った。
いや、そもそも、この街にこうして来るようになって、一人で行動するのは初めてだ。
そのことが逆に、ぼんやりした罪の意識を呼んだ。

絵里が自由意思で行動するようになった、と私も思った。