140. 社交辞令

投稿者: ゆきお

えみは以前東京に1年半ほど暮らしていたということで、共通に知識のある界隈やお店の話でしばらく盛り上がっているところに、小野寺が戻ってきた。

絵里の姿を認めた小野寺の表情が嬉しそうにぱっと輝いた。
それを見て、えみといっしょにいる間に忘れていた自分のワンピース姿を改めて思い出した。

小野寺の反応について、そしてその時の彼女の気持について問い質したとき、絵里はそのような主旨ののことを手短に答えた。

少しつっこんで訊くことで、こんな会話を得ることもできた。

「そのワンピースに着替えたっての、絵里を見て即座に気づいたんだよね。」

「それはそうよ。」

「どんなふうだった。」

「嬉しそうだったわ。」

「それは、そうだろうね。ニタって鼻の下伸ばしたのが想像できるよ。」

「ん…というより、もっと無邪気な感じ。」

「無邪気?」

「ちょっと子供もっぽい…親から思いがけないご褒美もらったような」

「ふ…ん、ご褒美ね。それで絵里は?」

「それはちょっと恥かしかったわ。私がふだん着るワンピースじゃないから。胸ぐりも大きくてちょっと露出度があったから、どうしてもそこに視線意識するし。」

そのときの絵里の羞恥心や自意識は、そのときの服もさることながら、それよりさらに強く、自発的に着替えてきたという事実に向けられていたはずだ。
しかし絵里はそれについては語らず、私もそれについて触れることができなかった。
絵里がそれについて罪の意識を感じていることを先だって私に話していたことにもよる。
そして、本来ならば触れたくはないはずの服の挑発的な側面についてわざと自分から語ったことは、明らかにそのことから話題をそらそうとしたものだと私は解釈した。

小野寺は、しかし絵里の服についてすぐにコメントすることはなく、急な用で事務所に戻らなくてはいけなくて…とまず不意の不在を詫びた。

が、その謝罪の調子にははやや形式的なところがあった。
たとえこうした特殊なプレイベートなシチュエーションにせよ、同席の客に無断で席を外したことについて、社交的な言い訳としても何か少しは実質的な理由を告げないというのは、これまで知っている小野寺の行動のマナーからは、やや違和感を感じた。
しかしそれだけに、あえて問い質すことは憚られた。

「いえ、私のほうこそすみませんでした。携帯のメールではどうしてもすまない報告書になってしまったので。」

もっとも、中座の謝罪をしなければなないのは自分のほうからでもあった。
えみの目を意識すれば特にそうだ。

小野寺は、絵里の顔とワンピースの胸元にちらちと目やり、もう一度笑顔を見せた。
一瞬何か言うのかと身構えたが、それ以上そのことについて何も触れる様子なく着席した。

もし服のことについて小野寺が第一印象のままに、そして場合によっては昼間の買い物を想起させるような口調で触れたとしたら、えみの同席しているその場で、プレゼントに対するお礼を意味のこもった感謝の言葉を発することにならざるを得ない…そんな意識からやって来た緊張感が去り安堵した。

小野寺は、えみと向い会って座っている絵里の隣に当然のように座り、絵里もそれが当然のように奥にずれた。

実を言うと「当然のように…」とその状況を見てきたように描写しているのは私で、そしてそれは、そんな細かい状況について改めて絵里に訊き質し、想像の中で描いたものである。

「席はどうだったの?」

「席って?」

「小野寺の座った。つまりどっち側にっていう…」

「ああそういう席?さっきと同じよ…」

絵里の答には、そんな質問が私から発せられることがもうむしろ不思議だという口調が感じられた。
私は、絵里がその時も今もその事実についてまったく意識していなかった事実の現れとして理解した。
そしてそこから私が想像の中で描いた事実は間違っていないだろう。

しかしそんな想像したからと言って何になるだろう。
むしろ私は、そんなところまで想像が及ぶ自分を恥じた。
そんな些細な質問をし、そんなことまで気にしている…そう絵里に感じられてしまっていることを恥じた。
絵里の中に、私に対する悪意はないことは分かる、しかしまさにそうだからこそ、絵里の自然な心持ちの中で自分がそう思われてしまっていくことが辛かった。
そのために、ある種のディテールについては、絵里に対する直接の質問を私は避けるようになっていった。

「それで東京への報告のほうはすっかり片づきました?」

「はいおかげさまで。」

「さっきの線で行けました?」

「はいそれでまとめられました。ありがとうございます。」

「それにしても、思ったより早く済んだようでよかったです。」

「ええ…、なんとか。すみませんでした急に。我ままを申しまして。」

「いえいえ、やっぱり早いほうがいいでしょう。あとこうしてゆっくり落ち着けますから。」

「…」

「それに、私のほうも事務所でちょっと失念していた用事を済ますことができたのでよかったです。しかし、急いで戻ったんですが、先にお帰りになっているとは思わなかったので、たいへん失礼しました。」

「いえ、お気になさらずに。」

「いやほんとに、言い訳ではないんですが、その、絵里さんのほうは報告書ということでしたし、もう少し時間がかかるんじゃないかと思って…。絵里さんの仕事の手際にはいつも感服してますが、今日また改めて感心しました。」

「そんなこともないんですが…。ありがとうございます。」

絵里の中座についての反応について、そんなふうなやりとりになったのを聞き出したのは私だが、そこにいたえみにとってはありきたりのビジネスの言葉の会話で二人の間にやりとりされている真のメッセージは、言うまでもないことだが、私の心に痛いものでのであった。

さらに言うと、この時の二人のやりとりに関しさらに何か月もたってから知ったことだが、絵里がホテルへタクシーで戻ったとき、小野寺としても絵里を一人にした以上そこで何往復かのメールのやりとりや、電話で長引く議論があっあても仕方ないと覚悟していたらしく、この時のビジネスに事寄せた会話で、バーでの予めの話し合いのまま絵里が行動したことが大方見てとれ、そしてその夜二人になってからの親密な語りの中でそれを事実として確認できたことは、彼にその夜、事のほかの満足を与えたという。

「小野寺さん、そんな仕事のことより…」

えみが明るい調子で口をはさんだ。

「こんな綺麗な人、そんなふうに失礼にほっておくと、私がとっちゃいますよ。」

「とっちゃうって、おい。えみちゃんにそんな趣味があるのか。」

「冗談です。でもあんまり素敵で、女性でもほれぼれしちゃうから言いたくなっちゃいますよ。綺麗で知的で優しくて。」

水商売の女性のお世辞とはいえ、手放しの褒め言葉に、こそばゆい思いがしたが、悪い気はしない。
自分のいる世界ではそこまでは聞かれないレトリックだ。
それに、特に女性の口からだといつもその裏にあるとげを見てしまう。

「えみちゃんって、何か不思議な子なの。頭の回転が早いんだけど、天真爛漫なところもあって、なにか人の警戒心を解くみたいな。」

しかし、「とる」という表現にはさすがにどぎまぎした。
何を知り、何を感じているのか。

「それに、とっちゃうも何も…」
小野寺がそれに反応し何かいいつくろうとしたが、適切な言葉が出ていまま、うやむやな空気が流れた。

「それに小野寺さん、絵里さんがこんな素敵に着替えてきているのに気づかないんですか?」

饒舌なえみに救われた。

「もちろん気づいてますよ。」

「男の人ってこういうときにちゃんと何も言わなかったりするのよね、ね絵里さん。ていうより、小野寺さんは日本の男性にしては外人みたいに女性のルックスの褒め言葉がすぐに出てくる人なんだけど、何か今日はらしくないですよね…」

えみの少し探るような口調は、本心のものななのか、それともすべて見通した上で、雰囲気にスパイスを加えようとしてのものなのか…。

「いや絵里さんがまたあまりにセンスがいいので気後れしてしまって。すごく似合いますね。」
「ありがとうございます。」

単なるお世辞とそれに対する感謝の言葉のやりとりの形で社交辞令的にこの話が済んだことには救われたと思った。

絵里は何も言わなかったが、その「ありがとうございます」が絵里の口から小野寺に発せられたとき、えみにも気づかれないところで、買い物への感謝の意味も込められていただろうし、小野寺もそのようなものとして聞いただろうということを理解するのに、たいした想像力はいらない。

ワインバーという空間で、なにげない社交辞令やビジネスの言葉の中で、同席の第三者にも分からない形でその時の二人の間で暗黙だが濃密なコミュニケーションが成立している様子への想像は、私の心を刺した。
さらには、そのことについていちいち絵里に問い質すことを憚るようになっていく自分を、絵里と相対しているにもかかわらず、そのコミュケーションの作る磁場からじりじりと排除さていく存在として感じるようになっていった。