141. 溶け込み

投稿者: ゆきお

「一仕事片づいたことだし気分直しに改めて乾杯しますか。」

えみがグラスに注いでくれていた赤ワインに口をつけた小野寺は上機嫌でそう言うと、ボトルにまだかなり赤ワインが残っているのに、シャンパンを開けて持ってくるようにえみに言った。

「もうそんなに飲めない」と小野寺に言ったが、乾杯だけでもという彼と、はしゃぐえみに押し切られた。

えみが席を立って二人になったとき、改めて自分の着ているものを意識し緊張が走ったが、小野寺の態度が性的な特に変ることはなかった。
ただ前とは違う親密な調子で、短い言葉があった。

「ほんと、似合います。私としてはとてもうれしい…ありがとう。」

「いえ…」

そんなふうな短いやりとりだったと絵里は言ったが、そこに込められた意味は重いと私は感じた。

えみも交えて三人でシャンパンで乾杯すると、メインに当たるようなローストビーフ類をつまみながら、またひとしきりたわいもない話が続いた。
先ほどの二人だけの会話ですっかり打ち解けたえみと、上機嫌の小野寺につられて、会話がまたスムーズにはずみだした。

会話に調子を合わせているうちに、小野寺の登場によって一度高まった緊張がまた少しづつほぐれていった。
先程三人で会話していたときと比べて、一段と場の雰囲気に馴染んだ気持さえする。

そんな会話の途中に、目の端に別のテーブルから立って出て行く二人の女性が目に入ったと思ったら、こちらへ近づいてきた。
えみとも、小野寺とも知り合いらしい。
打ち解けた挨拶が交わされた。
絵里はずっと黙って社交的な笑顔を浮かべているだけだったが、特にその存在を詮索するようなこともなく、こやかに笑いかえて会釈だけして去って行った。

「それだけ?」
「それだけ。」

「何か面白いことが起きるのかと思ったよ。」
「何もなかったわ。どうして?」

「いや、わざわざ、そんな細かいこと話すのは、なんでかなと。」
「なんでかしら。そういえばそうね。なんとなく思い出しちゃったの。」

絵里は私の問いに特に正面から答えなかったし、絵里の言うように、その話に触れた理由が自分でもほんとうに自覚されていなかったかどうか私には定かでなかったが、理由は話が進んでいく中で明らかだった。

「どんな人たち?」
「そうね…」

二人が去ってから小野寺とえみの話は少しだけ彼女たちに触れる話になった。
一人は絵里より年嵩で40前後、もう一人は絵里よりも若く20代で、えみと同じくらいというところか。

「最近、お店の景気、どうなのかしらね…?」

えみのその言葉に答えながら、絵里にも二人のこを小野寺が説明してくれた。
二人とも、ママともなじみのこの界隈の古いキャバレーに勤めていて、時々出勤前に立ち寄っていくという。
胸の開いたフェミニンなワンピース、きれいにセットした髪、隙のないメイクなどでえみに似かよった雰囲気から、水商売の匂いがしていたが、やはりそうだった。
かなさんとルナちゃんという名もいにも源氏名らしい。

二人のことを知らない絵里に遠慮しながらも、彼女らのこと、そのいろいろなエピソードについてえみが面白おかしく語ってくれる。
お店に現われる変った客の話、高校生の男の子がルナちゃんのストーカーになった話、かなさんがバブルのころに客にメルセデスをプレゼントされた話、二人して下着泥棒を囮りにかけて取り抑えた武勇伝、等々。
次から次へと繰り出されるそうした世界ならではの話が面白くて、いつの間に声をたてて笑っていた。
二本めのシャンパンが追加され、促されるままに自分の杯も進んでいた。

「えみちゃんの話にうまく乗せられちゃって…。なんだか、さっきまでの反動もあった思うのね。」
「それはそうだろうね。」

重い緊張がほぐれた後のことだ無理もない、そう理解しようとした。

絵里は手離しではしゃぐタイプではないが、時にスイッチがはいったように人一倍陽気になることがある。
お酒が入るとどちらかというと物静かになる私とは反対に、複数の席、特に気のおけない人たちといっしょの席だと笑いが多く饒舌になる。
そんな時間が訪れたのだなと思った。

自分の笑い声が、えみやお店の他の女性客の嬌声にまじって自分の耳に飛び込んできた。
そんな声を自分が出しているかもしれないと思った。
先ほどまで少しはあったこの空間に対する違和感が、いつの間にほとんど薄れ、その空気の流れにすっかり馴染んでいることに気がついた。

これから起きるであろうことを忘れようとするあまりのだったかも知れない、と絵里は言い、そうかもしれないと私も思った。

ひとしきり笑ったあとリラックスした絵里の顔を見て、えみがまた絵里の魅力について小野寺に聞かせるようにしゃべりはじめた。
えみの言葉が具体的にどうだったかについて絵里は恥かしがって私には全部そのままには言わなかったが、性格や容姿やファッションセンス等々にわたったという。

「さっき気づいたんだけど、4人とも似た服装していても、絵里さんだけやっぱり、センスに品があってちょっと違うと思ったの。」

えみのその言葉を聞いて、あっと思った。
確かに先程の二人も、そして目の前のえみも、胸ぐりのあいた柔らかな素材のフェミンンなワンピースで、4人並んで立てばお揃いのファッションスタイルと言ってもおかしくない。

この時、この空間に同じように座っていても服を着替える前と今とでの違和感の存在の違いがはっきり意識された。
先ほどまでブラウスにスーツ姿でいたとき、何かお客さまのような、自分だけ浮き上がったようなぎこちない気持だったことが、今のすっかりこの場に溶け込んだ気分の差とともにはっきり思い出される。

「そんな違和感だったのかもしれないわ。何かやぼったくて居心地悪いような…。思わず着替えることになったっていうのも。言い訳になっちゃうかもしれないけど…」

「…」
絵里のその複雑な思いを汲もうとしながら、うまくコメントすることができなかった。

「服って不思議よね…」
そう言うと、絵里はさらにその時気づいたことを語ってくれた。

今までこうした女性の接待する店に接待で同席したことはある。
絵里自身がそうした接待の席を自分から作ることはないが、同僚や上司によって設定されればついていく。
最近のキャバクラというようなところにも行くこともある。
その中で、女性ではあっても、かっちりしたビジネススーツに身を包んだ絵里は、あくまでも客である男性の側だ。
お店の女性もそうした存在として絵里を扱い、絵里もそのことになんら疑問を抱かなかった。
そこで、絵里という存在を守っているのは、絵里の肩書だけではなく、お店の女性とは一線を画す絵里の服装でもあるということに、この一件で改めて気がついたというのである。
絵里とてもお店の女性ほどではないにしても、華やかでフェミニンなワンピースややや大胆に短かいタイトスカートの何着かは持っている。
しかしそうした服は、プライベートな外出のための服であり、ビジネスの機会に着ることはないから、そうした格好でそんな接待の場に行くことはない。
もしそうした場で、自分の格好がお店の女性とそう区別のつかないものだったら、やはり自分の存在はどちら側か分からなくなってくるだろう。

それに気づくと、ここでこうしてお店の女の子と個人的に親しく話すことになって、同じような服に身を包んでいる感覚は、今までにないはじめての経験だと気づいた…。

「客からホステスになってしまったというわけ?」
「そういう単純なことじゃないの。」
「なんとなく、分かるけど…。」

絵里はシャープな口振は、私の単刀直入のコメントを単純で乱暴なものとして一蹴するかのように響いた。
そうかもしれなかったが、それ以上絵里の気持になって何かを理解することがしだいに面頭になってきた。
そして自分のもやもやとした気分だけが残った。
絵里のほうでも一種のいらだちは残っただろう。
ただ、そうやっていることが、この夜の絵里にとっていちばん安定した居心地のよい位置だったのだろうということだけは理解できた。

三人で陽気な会話が続いているところへ、えみがママに仕事で呼ばれて席を立った。

「クーラーここに置いといてくれる、後は適当にやるから。」
この後二人にきりしてしておいてくれというえみへの指示だというのは了解できた。