144. 「行きますか」

投稿者: ゆきお

「そろそろ行きますか。」

絵里の目を見ていた小野寺が言った。

「それで絵里は?」

「『はい』って言ったわ」

「それだけ?」

「それだけ。」

「素直なんだね。」

「他に言いようないし。」

そんな言葉が自然に出る二人の間の状況が私の中に思い描かれた。

その時の話はやや寝物語に近い状況で語られ始めたため、お互いややフランクになっていた。

「そのときの絵里の気持は?」

「そうね…」

「そうねって…」

「うまく言えない。」

「ぱっと浮かんだ言葉は?」

「正直に言っていい?」

「正直に言っていいよ。」

「…期待と怖れ。月並みな言葉だけど。」

「だろうね。」

「誤解しないで、他にうまい言いかたがないから。期待って言っても、単順な意味じゃないわ。何かいいことがあるのを待っていてというようなんじゃなくて。しないといけないことで、いろいろ予定が変ってのびのびになってしまったあとだから、やっと、っていう。」

「言いたいことは、なんとなく分かる。」

「歯医者でさんざん待たされるようなとき、決していい事されるわけじゃくても、順番やっと来ると、なんか覚悟するでしょ。そんな感じ。」

「まあそれはそうだけど。でも歯医者か…」

苦笑しながら私は言った。

「歯医者みたいなものなの?それって、 絵里にとって。」

「産婦人科って言って欲しかった?たとえとしてはどっちでも同じだと思うけど。」

そう言われて、話に聞く産婦人科の診察台のイメージがぼんやり思い受かんだが、体験のない私にはそれ以上にピンとはこず、SMホテルのイメージとその診察台イメージがぼんやりとだぶりながら、特に何かに結びつくことなく消えていった。
後から考えると、その絵里のたとえは、二人のありかたについてその時私に強く意識され、私の心をひっかいていた「男と女」の像から「医者と患者」の像に私の想像の焦点を向け、ある意味、心を少し軽くさせた。
そして、そのことによって私の絵里の深いところの気持を訊きそびれることになったのだが、が、絵里がそのときそれを意図したのかどうか…。

小野寺はひとり立ち上がり、カウンターまで行った。
会計を済ませながらママとエミとやや長く談笑していた。
それが、自分のことを話しているようで気になった。

「お車すぐ来ますって。」

二人のコートを持って来たえみが言った。

コートを着て、そのまま3人でたわいもない立ち話をしている間に車が到着した。
お店を出るとき、えみとママ、そして店の客の視線を背中に感じた。

「佳美さんもこうやって見送られたのかなと思ったら、お店に入るときとまた違って緊張したわ。」

「佳美さんのこと、気にるみたいだね。」

「だって、もし、えみさんたちが佳美さんのことを詳しく知っているんだとしたら…。私がどんな目で見られているか、気になるわよ。それは。」

絵里が佳美という女のことを気にするのは、はたしてそうした理由だけのためなのか…。
絵里の話の中にだんだんと佳美に触れることが多くなってくるのを感じながら、別様に思った。
そしてまた、佳美の名が出るたびに、例のサイトで見た彼女の写真や動画を思い浮べた。
それが、私の届かぬ彼ら二人の世界への唯一の視覚的回路だった。

そして、私の見たもの全部ではないが、絵里もそれを見ている。
彼女も佳美の話をする時に、私のようにそれを思い浮べるのだろうか。
ただそれを思い浮かべるときの根本は私とは違うはずだ。

車はタクシーというより以前に空港からの迎えに乗ったハイヤーの会社のものだと分かった。

「×丁目の××までね。」

「運転手さんに、いきなりプレイのホテルの名前をずばり言ったので、どきっとしたわ。」

小野寺は平然とした様子で、そして運転手も変らぬ調子で「承知しました」と答えたという。

「それで、悪いんだけど、××に一度寄ってってもらいますか。」

小野寺は、更に先程までのビジネスホテルの名を付け加えるように告げた。

「直接行くはずだったんだけど、あなたの部屋に忘れものがあって。私のバッグ。このあと必要なものが入っているから。ごめんなさい不手際で。」

小野寺は、いぶかる絵里の耳元にささやいた。

そういえばそうだと気がついた。

車がホテルに近づいたところ、小野寺がやはり耳元に言った。

「バッグなんですが、ルームカードを渡してくれれば取りに行きますが。どうします。もし、それがいやならいっしょにいらしてください。」