145. 防衛

投稿者: ゆきお

「それでどうしたの、絵里?」

「自分一人で行って取ってくるって言った。」

「え?」

「だって…。」

思わぬ絵里の行動を知り一瞬驚いたが、絵里の説明は彼女なりの筋道があった。

小野寺がとった部屋で彼が入ることを許したとはいえ、自分の部屋という意識はまだある。
先程までのいろいろなことがあったにせよ、自分の不在中に小野寺が一人でそこにいたことはなく、また入る時はノックもしてくれていた。
それについては、小野寺もまだ気をつかってくれている。
その自分の部屋のルームカードを渡すことは考えられなかった。
かと言って、ハイヤーをいったん二人で降り、フロントを通り二人で行って荷物を持って戻ってくる行動、それも、いかにも付き従ってという形にならざるを得ないそんな行動はとりたくなかった、と言う。

「でも、最初は二人でチェックインして、二人でワインバー行くために出たんじゃないの。」

「あら、誰かと出張に行ってビジネスホテルに別々に部屋をとっているときでもそれはありだけど。でもそれとこれとはちょっと違うわ。」

行き先を知っている運転手の手前もあるし、何も知らないとはいえホテルのフロントの人間にまで何かを見られている気がすると、絵里は言った。

「でも、もう運転手は何か感じているわけだから、同じなんじゃない。」`

「でも、何か違うの。」

「違うんだ。」

「なんだかプレーの準備の行動を見られているみたいで。」

「一人で取りに行かされるのだって同じだろ。」

「でも、それは運転手さんが車の中の私たちを見て勝手に想像すればいいだけでしょ。」

「で…?」

「車から出て、その時間にそんなふうに二人で部屋まで行って荷物取ってきて…もちろん中身は誰にも分からないけど…外を二人で歩いているのって、プレーの延長を公の場で見られているみたいで。それに…」

「それに…」

「少しお酒も入っていたし、お店でなんだかペースに巻き込まれ過ぎちゃった気がしたから、一人でしゃきっとしたくて。このまま二人で外に出れば、対等じゃない関係を誰にでも見せてしまうようで…」

絵里の普段の酒癖からして、相手の男にすがって歩かなければならないほど酔っていたとは思わないが、絵里の話ぶりを聞いて想像できたのは、絵里自身にも恐れを伴った自意識となるくらい、その時間、その場で二人して歩いているだけで何かを想像させるような一種のオーラが二人の間に出来きていたのではないかということだった。

学生時代にアルバイトの関係で、夜の時間に都内でも名だたるラブホテル街の中を帰宅ルートの一部にしていたことがあった。
そこで出くわす男女に肉体関係があるだろうというのは当然だが、すれ違ったり後ろを歩いて、観察するともなしに見ているうちに、それぞれのカップルのありようというものがだんだんと– もちろん想像の世界にしか過ぎないが — 見分けられるようになってくる。
学生のような恋人同士、結婚前のカップル、既婚者の不倫関係というようなものは年齢で区別がつき、それぞれに想像力を喚起するが、そうした中で、上司と部下のOLとか遊び馴れれた客と風俗関係の女性というようなそこに明らかな力関係がある男女に、他にない一種独特なエロスが放たれているのに気づき、そのありようがだいたい推定できるようになっていた。
そのエロスに共通するのは、それが自然のものであれ、営業的な媚態であれ、行動する男につきしたがう女性の従順さから発するものであった。
「伏せ目がち」、ということに象徴されるかもしれない。
さすがにSMの関係というのを読み取ったりというようなことはなかったが、そうした独特な従順さをまとった女性には、恋人に主導権を握られ恥かしそうに手を引かれていく女性ののりともまた違う、諦めとも共犯関係ともつかない態度から醸し出される独特の雰囲、官能性があった。
そうした場所を通る機会がなくなった今、しばらく忘れていたが、絵里が小野寺に促されるまま店を出てからの二人の像には、私がかつてそこで見た種類の男女の像が重ねられていた。

実は、絵里にも、一緒に住むようになってから何度か二人でそんな場所を通った折りに、戯れにそんな私の鑑識眼を披露したことがある。

「あの二人…」

「普通の二十代と三十代のカップルに見えるけど。」

「たぶん女性は素人に見えるけど、それが売りのデリヘルかネットで援交常習のOL。男は遊び慣れたサラリーマンだね…。ほら、何話してるか分からないけど、ちょっとよそよそしくぎこちない話し方で、女のほうが変に丁寧だろ。変に無言で男についていくよね。ほら、行く先、迷わないで男についてった…」

絵里はそんな私の話を思い出していたのかもしれない。
しかし、その話を私は持ち出すことはしなかった。

あるいは、絵里の行動はそんな力関係の中、せいいっぱいの自主性をを取り戻そうとする、なんらかの防衛であったのかもしれない。

いずれにせよ、絵里の行動を私は、自分なりに理解できたと思った。

「私、自分で行ってきます。」

そう答えて、ホテルの前に停車した車を一人で出た。

「そのかばんを持った気持は」

「特に…」

自分の心の動きも含めて何でも話すと言った絵里だが、その時の気持を踏み込んで明かそうとはしなかった。

部屋に入ると、小野寺のバッグをとり車に戻った、と言う。

絵里が語らない心の動きを知ろうと、それを、部屋に戻ってからまた車に戻るまでの細かい行動から聞き出そうとしたが、その時の経緯について、一度バッグを置いて、バスルームで化粧を直した、としか答えなかった。

「それで?」

「車に戻ったら、まっすぐいつものホテルへ行ったわ。」

「いつものホテルね。」

「だって、その初めてのビジネスホテルに比べたら3回目だもの、そうしか言いようがないでしょ。」

バッグを一人で持ったときの気持ちを聞き出そうとして、あれこれほじっくってうまく行かずぎくしゃくしてきたところで発せられた、「いつもの」という私の反復の口調に皮肉の棘を感じたらしく、絵里のほうの口調も少し苛立ちを含んだものとなった。

寝物語がだんだんとスタンスの食い違う話し合いになってくる危険を感じた私はその話題をそこで打ち切り、寝支度に入った。
絵里も同じ思いだったろう。
そこへ向けての雰囲気づくりに協力した。

ビジネスホテルを夕方に出てからの絵里の話は、つまるところ、「ワインバーに二人で飲みに行き、軽く食事をしながら会話し、ハイヤーに乗ってプレイをするためのホテルへ行った。」ということに過ぎなく、後はいろいろと枝葉があるだけに過ぎなかった。
ビジネスホテルでの情事を除けば、肝心なSMプレーはやっとこれからだった。

ただそれだけの話だが、その時の二人の行動、というより、ありようへの思いはかなり長い間私の想像力を別の意味で強く喚起し、心に棘を刺した。