165. 「やり手」

投稿者: ゆきお

日付は一昨日のものになっていた。

「へえ、こんなもの作ってたんだ。」

絵里の表情は変らない。
私からすれば、「悪びれたようすがない」と形容すべきか。

「ファーストクラスねえ…そんなこと絵里が要求したの。」

「要求というとちょっと強いかな。この前乗ったときの、感想を聞かれて、快適だって、お礼を言ったら、また乗ってみたいですか?と聞かれたから、これかの便をそれで手配してくださいますか?と率直に言ったのよ。元はといえば、きみがそう言ったのよ。特別任務のVIPだから、毎回ファーストクラスでもおかしくないし、今度から要求してみれば、って。」

たしかに冗談めかしてそのようなことを言ったおぼえはある。
それにしても…。

「附則に入れようと言ったのは?」

「向こうから、とりあえず、文書として残しておこうということで、提案されたし、それは悪いことじゃないと思った。契約の一部として一応明文化しておけば、そのほうがすっきりすると思ったの。」

「すっきりね。」

「だって今度含めてこれからあと3回、往復で6回乗るわけだけど、なにか特別の恩恵みたいに思うより、契約に込みでゲットしたことと思えば、いつもすみませんとか、いちいちべたべた感謝しなくていいでしょ。」

確かに、冗談めかしてそれを言ったのは私だが、それにしても、実行に移すとは…。
その交渉力というか、交渉への積極的な態度に感心した。

あのとき絵里から「随行員の同伴とかも要求してみる?」 という言葉が出てきたことも思い出したが、それについては、心の中に飲み込んだ。

「それから、タクシーも込みにしたというわけ。」

「この前、帰りが遅れたから、そのことで心配されて、身体がきつかったからタクシーで戻ったという話をしたら、それも追加しておこうって。私としても、やっぱり行きも帰りも楽だし。それに週末きみといっしょにいられる時間が少しでも増えるでしょう。ほんのちょっとだけ、2、30分といえばそれまだけど。でも、精神的に楽というか、あんまりあたふたしないで、今みたいにこうやって、話すことできるでしょう。」

「ねえ、向こうの取り分は何?」

その背後にあるもについての胸騒ぎから、率直な質問となった。

「取り分って?」

「この変更ってさあ、結局絵里に有利じゃない。こういう変更って、向こうにも有利なことをバーターとして提示したりするよね。」

「ああ…。そう簡単なギブアンドテイクみたいなものじゃないのよ。まず一つはね、これ、この前の帰りが遅くなったことから話しが始まっているのよ。」

「もう、ファーストしか残っていなかったというやつね。」

「そうそれはきっかけで、あとで、あの時のことについて改めて私が少し強く言ったの。もちろん私が寝坊したせいだけど、もとはと言えば、結局元のホテルに戻るのが明け方近くになるまであんなに体力を消耗するようなことになったからなのね。終わりの時間を、私の体力に配慮して常識的範囲にしてほしいと言ったのよ。そのくらいきつかったのよ。私ほとんど貫徹で仕事して仮眠しても、寝坊したりしたことないもの。そういうことを思うと、寝ぼうした自分だけじゃなくて、その状況に腹が立ったのよ。それは契約で時間を買われたみたいにはなってるのは確かだけど、それにしても、いつまででも何でもしていいっていうわけじゃないでしょ、大人の人間と人間のつきあいの範囲なんだし。監禁もののAVみたいんじゃないんだから。」

「そういうようなことを言ったの?小野寺に。」
「監禁もののAVみたいなもの」を絵里は見たことがあるのか、という点を苦笑しながらスルーして聞いた。

「まあ、そんなようなこと。」

「それで?」

「謝ってくれたわ。時間がずれ込んだのは、撮影の一件を私のほうが持ち出しからで、そこで失われた時間のことは考えてもらわないと困る、って再度皮肉を言われたけど、体力のことについては、これから注意して配慮するって。」

私もちくりと刺された。

「細則にプレー時間の終了とか入れるというようにはしなかったの?」

「ちょっと考えて、話題にもなったけど、それはできなかった。ケースバイケースだし、それに時間まで明記するのはちょっとなじまないって。それは信義に基いて行こうって。それはそうだと思った。それから…」

「それから?」

「撮影の件は、こちらももう再度提案しないから、小野寺さんのほうでももうその話題は二度と持ち出さないでくれと確認して納得してもらった。」

「…」

「前回のプレーで結局、私を追い詰める道具として2度まで利用されたから。釘を刺したの。あれ、精神的にすごい疲れたのよ。」

「…」
もとはと言えば、あれもこれも、私のせいということか…。

「それから、この前のときのショッピング、特にランジェリーショップに行ったことね、あとルビーノ、あ、ルビーノってあのワインバーね、あそこへ行ったこと、あれで二人が何か特別の仲みたいに人に気どられるようなことはまずいって。それについても少し抗議したの。」

「抗議?」

「抗議というか、文句ね。秘密保持に関係するところよ。」

「それで? 」

「附則と照らすと、確かに、私の言い分が通るというわけでもないのね。ワインバーに関しては特に。でも私としては、何か踏み出ているようなところがあると思って話して、少し議論になったの。常識的に言って、お互いの世間体といういようなところで、かなり危ないところに来てるでしょうというところで。」

「で?」

「結局、ああいう、二人でのショッピングは止めるということになったわ。向こうも確かに軽率だったと認めてくれた。これ、注意しないとどんどん、おおっぴらに行動することになっていくでしょう。行く先だって、怪しげなところになるかもしれないし。」

「ワインバーの件は?」

「確かに附則で向こうに有利なように固められてはあるけど、ただの仲じゃないカップルですっていう雰囲気があんまり見え見えの形で、彼の知り合いもいるところにおおっぴらに飲みに行くのはちょっと困るんじゃないかって、それは言った。」

「それで?」

「ママとえみちゃんだけは信頼できるし、そこはだいじょうぶと強調された。で、これ以上あんな感じで、他の店にはいかないし、行くつもりはないって。で、ルビーノ限定と確認して、それはこちらもOKしたわ。あと、他のお客さんがいるときは慎重っにっていうことで妥協したの。あと特に、SMプレイみたいなことは匂わせないでって、念を押したわ。」

「でも、ママもえみちゃんも、佳美さんのこと知ってるんだろう?彼の趣味は分かってるんじゃないか?もしかして、その二人も、小野寺のプレイ相手だったかもしれないよ。」

「そうかもしれないけど…プレイ相手かどうかは別として、佳美さんの件や過去のことで何か知っているかもしれない…としても、これはもう私には、触れられない世界ね。ともかくも、彼女たちの小野寺さんとの関係や、その商売でのプロとしてのふるまいに信頼を置くしかないし、置けると思うわ。水商売の人って地方都市のほうが口が堅いって前に聞いたことがあるけど、そんな感じはある。えみちゃんも若いけどしっかりしてるし。」

「なるほどね。」

「とにかく、そういうことで、あれこれ綱引きして、その最低限の結果として、この追加があるの。私だって、やすやすと言われたままにしているんじゃないわ。契約ってさ全部はっきり決めたようでも、履行のときに、いろいろあるものよ。それを何かかんかと線引きしていくものなのよ。」

絵里の話を聞いていると、そのまま何かを譲ったというより、こちらからいろいろ要求を出し攻勢をかけて、その部分で妥協するように見せかけて、有利な条件を引き出すというやりかたをとるという態度が見えた。
自分の仕事上のことでは、私はそのあたりが苦手で、いつのまに発注元との関係で、相手の土俵の中にいるというような苦い思い出はある。

「やり手だな」…そんな言葉が浮かんだが、口には出さなかった。

「やり手だな」と思いながら、そのやり手という部分を小野寺は逆手にとって、自分の土俵の引き寄せているのでないかという感じがした。
絵里はそれに気がついていないのだろうか。
また一方、その彼女の交渉上のやり手という側面が、私に向いてくるのではないか、いや実際もう私に向いているのではないかとの予感もした。

そんな漠然とした予感は、いずれも、そして特に後者が、今となっては、正しかったように思える。