166. VIP

投稿者: ゆきお

朝の会話を思い出しながら、絵里が置いていった一枚の紙を見ながら、気になることを反芻し、仕事にかかれない中途半端な午後の時間を過していた。
気になることは一つではなかった。

懸念の一つは、やはり、契約書の改定に関する条項が発動されたということである。
パンドラの箱が開いたことになりはしないか?

「まさか、これから先、契約書がどんどん改訂されていくということにはならないよね。」

「まさか。しないわ。でないとあんなに慎重に決めた意味がないもの。このファーストクラスとタクシーのは、そんなに深刻なものじゃなくて、ほんとはこんなに物々しく改定みたいにする必要もないんだけどね。ちょっとしたゲームみたいなものよ。というか、もとはといえばきみでしょ、アイディアは。その戦果報告として、文書にしてきみに見せるのは私もいいと思ったの。」

「そのファーストクラスの提案、ぼくから言われたとはまさか言ってないよね。」

「言うわけないわ。」

(後から思うと、ほんとうにそうだったのかとう疑いは消えない)

「それよりさ、撮影の話なんてことになったら、それこそ、ほんとに補足なんかじゃ済まなくて、条文じたいを変えないといけないところだったよね。それはあなたから出たって、向こうも知ってる。でも、そういうような変更はしない。それはまた確認したわ。逆に、この前きみにあの提案を言われたとき、契約書の条文を曲げてでも思ったけど、基本のところを変えちゃいけないというのは、今はっきり分かってるし、そしてそれは確認してるの。もちろん運用の解釈のところでまたいろいろ議論があるとは思うけど。」

彼女の論理では、パンドラの箱をおおっぴらに開けさせようとしたのは、私であって、それを小野寺と二人で実質的に閉じたということになる。
では、この目の前にあるような文書を作ったのはどういう意味を持つのか?
やはり、追加改定の規約が発動できるということを示すための示威的なものではないのか。
私としては、とにかくこれ以上何も起きないことを願うのみだった。

「ゲームみたいなもの」と絵里は言った。
その言葉でいみじくも今の彼らの関係のありようも気になった。
言葉を重ねた交渉が継続的に行なわれていたということだ。
私の知らないところで。

それはそもそもの契約書が作られる過程においても気になったことで、そのことについて絵里に苦言めいたものを呈した。
そして上手に反論された。

「こんなもの作るのなら、作る前か、もっと早くに言ってくれればいいのに。」
「だって、つい一昨日まで、あのときの報告で大変でそんな話どころじゃなかったでしょう。昨日はもう今日の話なんかしたくなかったし。」

今回も似たようなものだった。

絵里はそうしたいろいろな議論や交渉がいつからいつまでの期間行われたかについて、やはり曖昧な答しかしなかったが、1回2回の電話やメールの事務的なやりとりで決まることではないと思った。
交渉の末にその追加条項があるというような口振りだったが、飛行機の席をおさえる必要性から言えば、少なくとも今回についてはその措置自体はすでにもっと早くに決まっていたことなのだろう。
むしろ、明文化して私に見せるということについての話し合いが、あとから出てきたのではないかと今になっては疑いもする。

そして契約書について交渉したとあのときと今とでは、男女関係という面で二人のありかたは違うはずだ。
その間には二人が身体と情緒で濃密な時間を過ごし、重ねた事実が横たわっている。
明け方に帰され体力を消耗したことで腹を立てて抗議したと絵里は言ったが、彼女のその時の口調にすでに、痴話喧嘩的な物言いさえ想像させるものがあった。
そもそも、絵里が私に腹を立てて直接的にものを強く言うようなことはこの何年かもうあまり記憶にない。

小野寺が東京に来ているときにそういう議論を詰めたのか、という問いに、絵里は仕事で来ているときにそんな時間もないし、そんな気にもならない、電話とメールだけのやりとりだと答えた。
そう言われるとなおさらそのチャンネルでこれだけのコミュニケーションが成り立つ二人の関係というのが気になる。

絵里と小野寺のプライベートな会話、そのときの絵里の口調というのを聞いてみたくもなったが、それは、叶わぬことであったし、仮に絵里が小野寺と電話するところに私が居合わせることは可能であるとしても、それがまたどんな物事の進展を生むかと予想できないことを考えれば、そんな機会を好き好んで作るのは危険だと思った。

絵里がタクシーに乗って出ていくと、附則が改定されたことの意味づけ、その過程についてもさることながら、この附則の内容の意味づけの大きな意味がはじめて実感された。

時間が増えたという絵里は言う。

しかし、私にはむしろ、絵里がマンションのドアを一歩踏み出したところでもうすでに小野寺の支配下に入ったということのほうが強く実感された。
一人で空港へ行く行為が作っていた緩衝地帯がなくなった。
タクシーであるにせよ、運転手がそこまで迎えに来ているような、気持にさせられた。
これがハイヤーになればもっとだろう。

考えてみれば、今まで、私が望み絵里が承知さえすれば、いっしょに羽田まで、あるいは何かの外出のついでに駅や途中の駅まで行くことも可能であったろう。
しかし、こうなってくると、いっしょに空港まで行くことは禁じられたも同然だった。
いや、物理的に可能ではあるのだろうが、小野寺の金で費用を負担されたタクシーに私も乗り込んでいくのをよしとするには、私は自尊心が強すぎ、そして小心者すぎた。

ファーストクラスへのグレードの変化は、単に快適というだけのものではなく、絵里の飛行機での移動の意味を変えたと思った。
航空運賃の負担は、出張に必要な交通費の支給というものに過ぎないようなものであったはずだ。
が、タクシーで出て行き、ファーストクラスの優先チェックインを通って、ゆったりと乗り込んで行く…それを想像すると、移動のしかたのその変化は、家を出てから向こう側の世界にをシームレスにつなげた回路に絵里がはいるということを意味していた。
それは、私の生活様式からかけはなれたところにあり、その手の届かない回路に絵里がはいっていき、行動するということ、それがこの部屋を出て、通りに出たところで始まるということだった。

自分の部屋の窓から下をのぞき見るまでもなく、それでも通りの気配が気になっていた私の耳に、おそらくタクシーのドアであろうバタンという音が飛び込み、車の発信音が聞こえたとき、一瞬で、それらすべてのことを私は実感した。

中にいた絵里はどうだったか。

「VIP待遇…」もともとその言葉を出したのは私だった。
その言葉に出したとき、小野寺という男のVIPとして絵里が扱われるということの意味について何かを理解し、心の奥で何かを期待していたのかどうか、今考えても自分にも定かではない。