179. 揺らぎ

投稿者: ゆきお

月曜日。
絵里が仕事に出ていったあと、不思議な昨晩の時間について、混乱しながら反芻していた。

「元男でいまは女?」

「そうなの。」

「ニューハーフってこと?」

「そういう言いかたになるのかもね。今の言いかただと、性同一性障害…」

「性転換して、女性になったってこと?」

「どのくらい変えちゃったかは分からないわ。根掘り葉掘り訊ける話じゃないし。でも、見てのとおり男性の女装とも誰も思わないよね。」

「へえ、そうなんだね。なるほどね。もう一回写メ見せてもらっていい?」

化粧から何から絵里よりもある意味女らしいえみの姿をまじまじと見た。
これが元男だったとはとても思えない。
肩幅も小さくきゃしゃで、絵里のほうが年齢的な成熟から来るふくよかさで、やや大柄に見えるくらいだ。
奇麗な顔立ちだ。
が、たしかに、テレビやネットで見る美人のニューハーフに共通する美しさがある。
顔の輪郭や頬骨、化粧。
整形美人というやつかもしれないなと思った。

しかし、考えてみれば、「彼女」のような存在は今では日常のようにメディアに露出しているわけで、それほど驚くことではないのかもしれない。

二人の会話はそこから、その界隈の芸能人の話になり、絵里が社員研修旅行でタイに言ったときにニューハーフ美女を大勢見た話へと、そしてタイ料理の話へと話題が広がっていった。
今日の絵里はいつになく饒舌だ。

会話のあいだ、テーブルに置きっぱなしになっていた携帯がいきなりピカリと光った。
絵里は驚いたようなぴくりとした反応で携帯に手を伸ばす。

開いて、少し時間をかけて読んでスクロールしているところを見ると今度は長いメールのようだ。

途中で大きな溜め息をつき、いらだったように言う。

「ママから。」

私のほうにちらりと見せた画面には、改行なしで画面いっぱいに文字が書かれていた。

「またこんなに長いメール。たいした用事でもないのに。」

絵里の母親は、パソコン教室に通い出し、文章を打つ練習がてら、メールを書いて送ってくるようになったのだが、家の管理や他の親戚や近所のつきあい、身体のこと、はては父親についての不満など、愚痴混じりの文章を長々と書いてくるようになったと、絵里は最近こぼしていた。

携帯を戻すと全部読んだようすもなく苛だったようにパチンと閉じた。
そして、それに飽きたらないようにもう一度開けて電源を切り、ジーンズのポケットにしまった。

「そう言うなよ。いろんなことを話してくれるのは信頼されている証拠だぞ。うちなんか必要ないときはほとんど連絡ない。」

「そうかもしれないけど。返事しないとまた煩いのよ。」

「で、返事しなくていいのか。」

「すぐすると、またすぐ返事が帰ってきたりするから、後で家に帰ってからする。タイミングがあるのよ。」

そこから自然と会話の主題はは絵里の実家のことになり、そして彼女の苛立ちはますますおさまらない。

そろそろ退け時かなと思い、いつまでも従業員がまわってこない店のカウンターに勘定を頼みながらトイレに行った。
ワインが回った頭で鏡を見る。
絵里がほんとうは何を心に思っているのか、何をこれから言おうとしているのか一抹の懸念を覚えながら、ともかくも、今日はこの店の楽しげな雰囲気に身をまかせようと思った。

戻りながら、団体席の向こうの自分たちのテーブルに目をやった。
先ほどしまったはずの携帯をじっと眺めている絵里の姿が眼に入った。
その顔が先ほど家で読書をしながら物思いにふける表情と同じだった。
近づいていくと、こちらの姿を認めて携帯を閉じる。

「だいじょうぶ?」

「うん、悪いからママのメール、とりあえず読んでおこうと思って。」

とってつけたような言いかたに、ほんとは小野寺からのメールか何かかもしれないと思った。
何の考えごとをしていたのか、何を言われたのか。

絵里は私がトイレに行っている間にすでに来ていた伝票を取ると、今日の勘定は自分が払うと主張し、レジで払ってついでにお手洗いに行くと言って席を立った。
後ろ姿の絵里のジーンズの尻ポケットにささった携帯を見ながら、トイレでその携帯を取り出して小野寺とメールを交している絵里の姿がどうしても脳裏をよぎった。

帰り道の絵里のテンションはまた高かった。
ほろ酔いかげんで、私に寄り添い腕を自分からからめてくる。

帰ってきてからは、夜の残りの時間をテレビの世界史もののドキュメントの録画を見て過ごすことなった。
ちょうど翻訳を候補の本に関係する話で、予備知識を仕入れておきたいと思ったのである。
絵里にとってあまり興味のない対象かもしれないと思ったので、少し遠慮したが、つまらなかったら寝るからと言って私の肩に頭をあずけてソファーにずっと座っていた。
が、画面のほうには身が入らないようすで半分眼を閉じ寝てるようだった。
今日の午後まで「あちら」にいたわけだからたしかに疲れただろうと思った。

が、寝支度をし、ベッドに入り、そのまま少し抱きあっただけで眠りにつくかと思ったら、積極的に唇を求めてきた。
私も、昨夜からの興奮がぶりかえし、背中を、乳房を愛撫すると、身をよじって敏感に応じるような反応があった。
股間に指をやる。
いつもこういう反応のときにはすでに溢れるようになっている場所が、意外なことに、ほとんど濡れていなかった。
愛撫には積極的に反応するので、丁寧にゆっくりと刺激していると、ひときわ息が荒くなり、甘い声を出して、突然熱く愛液が溢れ出してきた。

ひいとしきり愛撫を続けたあと、正常位になり貫く。
そのあとは余裕のある週末のときにいつもある情熱的なセックスだった。
絵里もいつもより積極的に反応したほどだった。
われを忘れ、彼女の中に果てた。
そうして、先ほどまでの懸念を心の外に追い遣るようにそのままだるく眠りについた。

ほんとうなら、そのつかのまの安堵の中で朝まで眠れればよかったと、昨晩のそのあとのできごとを反芻しながら思う。

夜中に喉が乾いて眼が醒めると、絵里は傍らにいなかった。
キッチンのテーブルに座り自分のパソコンをぼうっと見ていた。
一瞬小野寺とメールのやりとりでもしているのではという疑いが頭を持たげた。

「早く寝ないとだめだよ。」
「そうね。でも…」

お茶を濁すような言い方に、これまで抑えていた言葉が思わず出た。

「もしかしたらあいつか?」

絵里がぽかんとした顔でこちらに向け、そして表情が強張る。

「いや、こんな時間に、小野寺と連絡でもしあってるのかと気になって。」

「違うわよ。だいたいこんな時間からメールなんかしてくるわけないじゃない。」

苛だった口調だ。
説得力のある言い草とはとても思えなかった。
あるいは、小野寺からもらった何か動画のリンクでも見ているのではないか。

「じゃあ君はこんな時間に何してるんだい。」

「急に明日からの仕事の段取りが気になって寝つけなくなったのよ。大事なときなのに、週末何も考えずほったらかしだったから」

悪いと思いながら、開かれたパソコンの画面に、表示を盗み見るようにだけ一瞬眼を向けた。
画面には確かにテクニカルな文書のようなPDFファイルが開かれていた。

が、週末ほったらかしというのは絵里と小野寺の都合によるもので、そもそも仕事といっても、小野寺とのプロジェクトのためのものだ。

そしてあの情熱的なセックスのあと、無垢な気持で寝ていたのが自分だけかと思うと腹がたった。

セックスのあとすぐに仕事のことや日常雑事のことに気を向けはじめる男の性癖を女が嫌う一般的な話の裏返しよりも、男にとっては女のそのような行動はもっと大きな苛立ちと失望の種だ。
快楽の絶頂のあと傍らで失神したようにぐったりと横たわる女を醒めた目で見るのは、男にとって自らの力の証しだ。
その逆はまさに、自分の男としての力を否定された気持を生み出す。
少なくとも私にとってはそうだ。

「仕事って言ったって…」

が、そこでこれ以上何かを言ってはおしまいだと思った。
大元は何にせよ、仕事で絵里にストレスが溜っているとするならば、刺激するのはまずいし、可哀そうだ。

「いいから、もう寝ようよ。心配ごとがあるなら話してよ。仕事のことはよく分ってはないけど。」

「そうね、ありがとう。ごめんね」

絵里がパソコンの蓋を閉じると、ダイニングの電気を消し、二人でまた寝室に入った。

ベッドに入るとどちらからともなく「お休み」といい、そしてどちらからともなく背中合わせに眠りについた。

……

朝起きると、絵里は隣りにいなかった。
時計を見ると、あと15分で絵里の出かける時間だった。
飛び起きてダイニングに行くと絵里はすでに起きていて、出勤の仕度も済まし、自分でコーヒーを入れて飲んでいた。
そして、考えこむようすでテーブルの上のPCをじっと見ていた。

しまったと思った。
平日の朝食の用意は、絵里が出勤のしたくをする間の私の役目になっている。
しかもよりにもよって月曜日に、昨晩あんなことのあったあとに…。

「ごめん、ごめん、うっかり寝坊しちゃった。朝ごはんは?これからトースト焼こうか。」

おはようもそこそこに言う。

あせる私をたしなめるように絵里が落ち着いた口調で言う。

「おはよう。だいじょうぶよ。ん…ちょっと時間きびしいし。それにいまいち食欲ないし、コーヒーあれば十分。」

言葉は穏やかで、かすかに笑みさえ浮かべているが、何か本心の読めないようなものが口調にも表情にもあった。
いらだちを隠そうとしているのか。
寝坊した私のだめさを、冷淡に見ているのかもと感じてさえしまうのは私の僻みか。

が、出かけるときは、おどけたような口調で、「さあ、さあ仕事、仕事」と私に笑顔を向けて去って行った。

一人になって、絵里の出ていったあと昨日帰宅してからの彼女のようすを思い出したどるたびに、疑問が強くなっていくばかりだった。

何を心に抱えているのだろうか。
ほんとうに仕事だけか?
やはり小野寺から指令を受けて、私に何か言はなければならず、それが心の中にわだかまっているのでないか。
もしかして、私と彼の間で板挟みになりながら、その内容についてやりとりするはめになっているのではないか。
一時的にでもそれを私に悟られないようにしようと努めているのではないか。
葛藤のような心の中の何かが絵里の情緒を不安定にしているのではないか…。
その思いは、これから何が絵里の口から出てくるのかというばくぜんとした不安につながった。

えみのことだけでさえ、すでに私の情報処理能力を越えていた。
他愛もない話かもしれないが、その意外な情報も私の認知を撹乱していた。
そして、絵里の態度の揺らぎは、私たちの「今」に大きな揺らぎをもたらす何物かが絵里の中に秘められ、存在していることの兆候でないかと感じられた。

一人になった私のほうに、思いにふける番が巡ってきた。