181. 告別式

投稿者: ゆきお

金曜日、絵里の帰りは残業を終え8時頃という予定だった。
落ち着いて外食したいということで、日曜日に却下された、静かなビストロを予約してそこで落ち合う。

これまでの習慣だと、プレイのことについてぼちぼちと話し出すのが、金曜の夜か土曜の夜だ。
このタイミングだと家に戻って遅くにもう一度落ちついたころに話し始めてくれるだろうか…。
あたりさわりのない話しをしながらそんな計算が頭を巡る。

「明日、午後からちょっとだけ神奈川のほうに仕事で行かないといけないの。」

話が週末の予定について触れかかったとき絵里が言う。

「ああ、そうなんだ。今、仕事大変なの?」

「出勤というか、告別式に出ないといけないの。」

「告別式?だれの」

「小野寺さんの叔父さん。」

「ん?そんなものに絵里はつきあう義理があるのかい?」

「個人の話じゃないわ、会社のつきあいよ」

「どういうこと?」

「小野寺さんの叔父さんが亡くなったという連絡が一昨日あったんだけど、それはそれでいいとして、私も知らなかったのけど、亡なった叔父さんというの、うちの会社とずっと前に関係があったのね。」

「へえ。」

絵里の声がややひそまる。

「××省の課長をやった方で、外郭団体に天下りしていて、それもずいぶん前に辞めてから亡くなったのね。で、うちとはもうかなり縁が切れてたんだけど、上のほうの役員で覚えている人がいたの。それで、彼に長男、というか娘婿がいてね。彼が喪主なんだけど、これまた別の外郭団体の役員でね、うちが仕事をとりたい分野にいるけど、うちとは直接のつながりはないの。でもって、甥の小野寺さんとの今の取引関係もあるし、言いかたが悪いけど営業的な感覚としては、このタイミングで行ってきたほうがいいって、上のほうが判断したのよ。それでうちの役員と私が行ってくることになったの。」

「それはまた急に、というか偶然というか。」

「そもそも今のプロジェクトの話が回ってきたのは、私もそこまでは知らなかったのだけど、大元はその縁の繋がりだったのね。だからよくよく考えると偶然ではないんだけど。会社って私なんかがまだまだ知らないことがあるのね。」

「ということは、その甥は、小野寺の従兄弟ということになるのかな。で、小野寺に義理を立てながら、その縁と父親の昔の縁を使って、ターゲットの従兄弟に名前と顔を売り込みにいくということ。」

「露骨に言えば、そういうことね。」

「人の死ってそういうことに使われるんだな。あんまりいい感じじゃないな。」

「葬式って、もともと死んだ人のためじゃなくて、残された人の社交儀礼でしょう。特に地位のある人の大きな葬式って、そればっか。だから会社名とか、政治家の名前でこれみよがし飾られた花輪があるわけよね。うちは今回そこまでやってないけど。それに故人を知っていた役員のほうは、何か感慨がないわけではないと思うよ。」

「なるほどね。それ、小野寺から来たメールってその話だったの?告別式の出席って水曜日に決まってたの。」

「それは今日なの。だから今日話しているわけ。」

「へえ、そう。」

「水曜日に小野寺さんから連絡あったのは、もともと今日仕事で会社に来る予定だったのを、身内に不幸があったので失礼してキャンセルしないといけないというものだったのね。そこには叔父ということだけ書いてあったの。そこで、私とプロマネで話し合って、お悔やみをどうするか、弔電くらい打つかどうか協議したんだけど、まあ叔父という縁だしそこまでしなくても、とりあえずプロマネと私から丁寧なお悔やみのメールを返して、次に会ったときに直接お悔やみを言うくらいでいいんじゃないかということになってたの。」

「それがどうして。」

「プロマネが進捗状況の話のついでに、面談のキャンセルとその理由について上の部長に話したら、なんとなく勘が働いて、念のためということで故人がだれか調べながら、上のほうに話したのね。そしたら、その故人のことと今のプロジェクトとのつながりを知っている役員のほうに話が伝わって、それは大変ということになったの。それが今朝のこと。告別式終ってから知るところだった、何故早くきちんと報告しないのかってプロマネは上から怒られたんだって。私は直接は言われなかったけど。って言ってもね…このプロジェクトが降ってきたきっかけに、私たちの知らない人とのそんな昔の縁があったなんて、私たちはそこまで知らされていなかったわけだし…。でもこういうこともあるんだなって、いろんな可能性に気をまわして、報告はきちんとすべきだなって勉強になった。とりあえず私もプロマネもそのへん考えたはずではあるんだけど…故人を最初にちゃんと同定しなかったのがミスね。」

こういう、仕事にエキストラの事態があったとき絵里はいつも生き生きとしてくる。
根っからのチャレンジャー精神が発揮されてくるというものか。
たぶんビジネスウーマンとして一つ学んでステップアップしていくという感覚もそこで活発に働くのだろう。
もし私だったらへまをやりそうになって上から怒られたし、余計な仕事が増えた落ち込むほうに気持ちが向かうと思うが、彼女はそこから教訓を引き出しポジティヴに気持ちを切り換える。
そんなパターンを何度も見てきた。
だから組織の中で今の地位や役割があるのだろうけど。

しかし今週の前半と違いこんなに生き生きとしているのは、はたしてそれだけのせいか。
小野寺に明日会うということも関係してはいないか?

「それで明日、小野寺に会うわけだよね。」

「会うと言っても、葬式って、知っているでしょう。話するような場所じゃないし。特に故人の親戚なんて、並んでいるところに、焼香のときに顔も合わすか合わないかで頭を下げるくらい。」

「それはそうだな。S先生のとき…」

「そうだったよね…。」

絵里が感慨深げに言う。

二人の中で一瞬に心の中の思いが繋った、と思った。

S先生は、二人が修士のときに直接お世話になった助教授で、私の博士課程の恩師とは違い、二人の共通の恩師ということになる。

学内でも学界でも将来を嘱望された学者だった。
穏かなユーモアのある人柄で、学生の面倒見がよく、そして二人は特によく目をかけられた。
学部のとき二人とも修士に進学したのは先生の影響であり、その元で勉強を続けたいと思ったからだと言ってもよい。
学生としてだけでなく、若い恋人どうしとしても見守ってくれた。
自宅に遊びに行くことも多く、先生の大学の同級生だったという奥さんも私たちのためによくしてくれた。
二人にとって二十歳年下の私たちは、子供のいない彼らにとって子供代りのようでもあったが、むしろ、奥さんの礼子さんと絵里はまるで年だけはなれた姉妹のような存在になり、絵里はいろいろと相談ごとを聞いてもらっていた。

が、私たちが2年生の秋に先生は膵臓の癌が発覚し、数ヶ月の余命宣告を受けた。
早い転移と抗癌剤、放射線の強烈な治療の競争の中を闘ったが、年が暮れる前には亡くなってた。
肉親以外の面会が謝絶される再末期まで、何度も私たちは病院に見舞いに行き、面会できなくなった後も、礼子さんは話し相手に迎えてくれた。
とくに絵里は礼子さんのよい相談相手となり、向こうからお使い事を頼まれたり、呼ばれて会いに行ったりと、肉親のような存在にまでなっていた。

しかし、礼子さんから絵里が直接電話で知らされかけつけた通夜、そして翌々日の告別式は、二重の別れの始まりだった。
死期を看取るプロセスのなかで覚悟ができていたいた私たちにとって、先生の死を悼む気持ちは深いところで内化され、葬儀の中で、むしろ気がかりは礼子さんのことだった。
看病疲れで彼女がしだいに肉体も精神も衰弱しているのを見ていたからだ。
絵里が、そして私も、礼子さんとゆっくり話したかったのは言うまでもない。
が、通夜のときも告別式のときも、親戚にサポートされて喪主を務める彼女とは、単なる学生として参加している私たちは一言も個人的に言葉を交す機会はなかった。
それはまたもう一つの悲しみであり、四十九日が明けたらゆっくりと話をしたいと葬儀が終ったあと二人で慰めあっていた。
が、先生の死去後九州の実家に帰っていた礼子さんが亡くなったという知らせを、病院通いで知り合いになっていた礼子さんの女友達から絵里が受けたのは、葬儀から1か月後だった。
死因について詳らかにされなかったが、睡眠薬の飲み過ぎという噂だった。

私は博士課程への進学を睨んだ修論がにっちもさっちも行かない状態になっており、そのプレッシャーのない絵里だけが九州での告別式に行ってきたが、まだ大学関係者の多かった先生の結婚式に比べ、礼子さんの葬儀ではまったくの異邦人だったと言葉少なに語った。
先生が亡くなってから後の礼子さんの思い出として私たちのもとに残ったのは、通夜と告別式のときに目を伏せて挨拶した青白い顔と、一度実家の九州からくれた直筆のお礼状の短いが心のこもった感謝と、もう少し気持ちの整理がついたらぜひ私たちに会いたいという、果されることのない望みの言葉だった。

グラスを持つ手も止まり、しばらくじっとしながら、S先生についての思い出から起礼子さんの葬儀にいたるまのでことが早まわしのように心の中に去来する。
沈黙の空気を挟み向いで身じろぎもしないに絵里もそうだろう。

どちらからともなく会話が再開したあとは、話題は、先生や奥さんのことに直接触れるというより、S先生と過した時代やそれに関連するいろいろな出来事をぐるぐると周るものとなり、気がつけば11時のビストロの閉店の時間になっていた。