187. Eliza

投稿者: ゆきお

スイート・ルームのバスルームはやたら広かった。
そこでSMプレイが十分に可能だと思ったと、絵里はこともなげに言う。

「バスタブがホーム温泉みたいに大きいの」

「それお湯溜めるが大変じゃない?」

「だから、どうせもともと使ってみたいと思ってお湯入れあったの。あと温度見るだけ。」

「手回しいいね。」

「そのあと、バスタブいつ使えることになるかどうか分からないし。忙しいとホテルのバスって結局使わずじまいなること多いよね。もう一つホテルでのバスはあるけど、実はメインのホテルのほうでバスタブってちゃんと入ったことないの。今まで。だけど今回もそうなったらもったいなって。こういう機会ってもうこれからないだろうし。」

こういう状況で、その与えられた贅沢の機会を逃さずに享受しようという絵里の貪欲さに驚いた。

「で。」

「エルザ」

「え?」

「選んだ名前よ。」

「バスタブに浸って目つぶって上向いたら速攻決まった。」

「名前だけ?」

「名前とファッション。セットで浮かんだのよ。」

「それにしてもあり得ない名前を選んだな。」

「そのほうがリアリティがなくてよいと思ったの。」

「ふーん。どうせならイライザにすればよかったのに。」

「イライザ…どうして?」

「マイ・フェア・レディっていう映画あるだろう。もともとは舞台なんだけど。イライザって娘がどんどん変身していくよね。」

「ヘップバーン可愛かったね。でもエルザとイライザじゃかなり違うよね。」

「違わないさ。エルザはE-l-z-a、イライザはE-l-i-z-a。同系統で、エとイはアクセントの関係で母音の発音が変るのを日本語で写したときの表記の違い。」

「それで…」

「映画憶えているよね。あの中でヒギンズ博士ってのが出てくるだろう。イライザを一から教育して、服も着せる。小野寺はヒギンズみたいなやつだな。イライザも最初いやがっているけどどんどん変身にはまってく。」

「ん…ヒギンズ博士はどっちかっていうときみよ。」

「そう? なんでさ。ぼくはコスプレなんかさせないぞ。」

「コスプレって…だってきみは本物の博士でしょう。PhD。それに今の私を作ったのはきみだからね。」

「そうかい。」

「そうよ。きみと出会って論文の書きかたを鍛えてもらわなかったら、こんなふうに報告書とか書けて、今の仕事できてるようにはなってない。ヒギンズ博士って言語学者でしょう。きみもそう。言葉のプロ。その博士が教育する。それが本質で、服なんて表面的なものよ。」

「…そうかな」

「そうよ…」

私の中では絵里の言葉は、私の指摘した今の状況をただ否定するための上滑りのこじつけにしか過ぎない気がした。
私が彼女の文章を直してやったことはあるが、そもそもそういうしゃべり、当為即妙の反論はもともと彼女の持ち前のものだ。

「コスプレ」という言葉が癇に障ったようなのも明らかだった。

『マイ・フェア・レディ』の原作はバーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』で、それをさらに遡ればギリシャ神話の「ピュグマリオン」伝説がおおもとにある。
そこからの話は少々やっかいで、伝説のポイントは、ヒギンズ博士の原型である彫刻家の「ピュグマリオン」が自分の作った彫像に恋に落ちるところにある。

「エルザ」という名前の選択がもたらした神話の連想は、一連の考えを私の中に生み、その後それについて考えを深めることによって、この話は私たちにとって重大な意味を持つことに私は次第に気づいていくことになる。
そしてもしかして、彼女も何かそこで本質的なことに気がついたのではないかとも。
だが、今それを語る場ではないだろう。

そのときの実際の絵里との会話においても、深めるべき主題ではないと思った。

何より、自分でうっかり持ち出したとはいえ、その話題で中断されることなく話の続きが聞きたかった。