188. Elza
投稿者: ゆきお
「で、お風呂で?」
「お風呂は目的を達したから長居する用はないし、髪の毛はお湯だけだから、後はもう段取りを迷わないことね。それにしても、高級ホテルのバスタオルっていいねやっぱり。」
そのまま真っ先に、 乾かした身体に香水を少しなじませ、髪の毛を乾かしながら、だだっぴろいドレッサーに並べた、首に着けるアクセサリーを試していったという。
「香水は何?」
「ディオール。」
「ディオールの何?」
「名前言っても分かるかな。」
「分からなかったら調べるだろう。」
小野寺が選んだ香水だ。彼と絵里だけが知っていて、私にその知識のないという言い草にあまりいい気はしない。
「ジャドールっていうの。それの小瓶。」
「ジャドール?」
「フランス語ね。」
「ああフランス語か。」
言われて “J’adore.” という綴りと意味が出てくるくらいのフランス語の知識はある。選んだのは小野寺だが、この主語の Je は誰だろう。
「どんな香り。」
「大人の色気ね。上品だけど、セクシー。あと…。」
「今分からなかったら、後で検索して思うとでしょうけど、男の人はフラコンでエッチな連想するかもね。」
(意地があるのでそこはスルーして、後で一人で検索して、見覚えのある形の容器にそのいわんとするところが分かった。が、そういう連想は男だけじゃなく女もそうだろうし、そもそもその時の絵里のものではないのか…。)
「で、服は?」
「レザーの黒いタイトに白のブラウス。レザーの短かいジャッケット。」
「なぜそれにしたの。」
「エルザ」っていう雰囲気。
「エルザでそれか。どこから見ても一般人じゃないね。SMクラブの女王様という雰囲気じゃない、それ。」
ダイレクトに振ってみる。
「んん…そうそう。それね、そういうホテルってSMクラブからの出張プレイって馴れてるから、どうせSM嬢の出張みたいに思われながら入るんだったら、なんだかおどおどした新人M嬢より、いかにも女王様ですって行ったほうが格好よく…ん…そうね、すっきりしているかなと。ホテルの人に見られても。」
拍子抜けするくらいあっさりと、ポイントは心得てますという調子で返してきた。
SMクラブとかSM嬢とか女王様とか、出張プレイとかいう単語が、もう普通に躊躇なく口から出てくるのは、背後にそういう会話の積み重ねがある証しではないか。
私の使う単語がネットの広告やなにかで仕入れた頭の中のものなのに対し、絵里のそれはリアリティに近い他人と交された会話ということになる。
そして、そのレザーのジャケットは同じタイプのものを持っているから実は普段の自分からそれほど突拍子もないものではないとも言う。
確かに絵里はそんなふうなレザーのジャケットをよくジーンズと合わせて着ている。
そのジーンズが革のタイトなミニスカートになったら…そう思うと私の頭の中ではリアリティが増す。
髪の毛を乾かしながら、やはり時間との戦いという気分になってきた。
午前中自宅を出る前にシャワーで念入りに身体を洗い、ゆっくりシャンプーをしてきたのに比べると、朝夕逆転して、出勤前の慌しさの気分になってきたという。
絵里のこういうときのテキパキぶりを知っているので、動きが想像できた。
決してパニックにならず、戦闘準備のオーラを漂わせる。
「たしかに、『出勤前』だものな。」
もうオブラートに包まずジョークめかして言っみてる。
「そうね。チャレンジングな初出勤。とにかく髪の毛なんとか乾いたから即効でランジェリー。あ、その前に首回りのやつね。」
こいいう時の絵里の楽天的な役割同化力はたいしたものだ。
どう見ても屈辱的な状況をチャレンジとポジティヴに捉える力。
「首は何?」
「細い革紐にペンダントのついた簡単なもの。黒のチョーカーはあんまりだしね。この前のチェーンのは合わないから迷う余地なし。」
「その革紐のってどのくらいの首回り?」
「首まわりにあと指何本か入るくらいかな。」
「それもチョーカーの一種なんじゃない?」
「ん…見方によるかな。」
全裸に革紐のチョーカーだけの自分の姿を鏡の中に認めたに違いなり絵里はどういう思いを抱いたのだろう。
「で次は、下着?」
「もうトータルなイメージで決まってたから、試す必要もないんだけど、言われたから一応着た。選ばないのから先に。」
ブラ、ショーツ、ガーターベルトのセットをモーヴ、ペールイエローと形だけ試しすぐに脱いだ。
悪いがストッキングは、最初のガーターベルトに1足だけ肌色のものを吊って試したあと、黒は試さなかったという。
「もう確実に着ないと分かっているのに、新しいの卸してくしゃくしゃにするのってばかげているでしょ。」
「怒られると思わなかった。」
「かも知れないけど、全体の趣旨は実行しているわけだから、話せば分かると思った。」
「で? 分かってくれた?」
「確かめもしなかった」…爽やかな笑顔で言う。
「で、本命は?」
「だから黒」
黒のブラとショーツを身につけ、「とりあえず」ガーターベルトもしたがすぐ外し、 黒のパンストを穿いたという。
「どうしてガーターベルトにしなかったの。そのほうが小野寺みたいなやつは喜ぶんじゃない。」
「小野寺みたいな人じゃなくて、きみのイマジネーションの中でしょ。」
「そのレザーのミニスカートではクリップで吊った折り返しのところが簡単にはみ出て見えちゃうのよ。そういうの喜ぶ人もいるけど、彼はそういう下品な悪趣味は好きじゃないと思うよ。実際パンスト、いいチョイスだと言われたし。」
「パンスト2足あったよね。」
「柄のあるほう。」
「どんな柄?」
「大きい菱形というか、斜めのラインが交差したの。」
「ああ、あの縄みたいな模様のやつか。」
「そう見たいなら見えなくもないけど。ダイヤ柄って言うのよ、普通。」
(あとで検索してみたが私にはやはり足や太腿に縄が絡みついている絵が否応なしに想像された。)
「なんでその柄にしたの。」
「その柄にしたのは私じゃなくて、私のほうは柄にするかプレーンにするかの選択ね。で、スカート、ジャケットが黒一色でブラウスも無地の白だから、プレーンだとあまりにアクセントがなくなると思ったわけ。」
「なるほどそういうものかな。靴は。」
「ルブタン。理由は同じ。これがいちばん嵌る。あと一度本物履いてみたかった。」
確信に満ちた言葉。風呂から出たら、細部までイメージした完成形をめざして何の迷いもなく、淡々と仕度をこなして行ったことになる。
「初出勤のしたくにしては快調だね。」
私の皮肉を無視するように涼しい顔で笑っている。
「えっと、でもね、1箇所とまどったとこあった。」
「何?」
「アンクレット。」
「アンクレットが?」
「2度目のメール貰うまで、私それブレスレットだと思ってたのね。まじめに手にとって見てなかったから、分からなかったけど、確かに長さが違って、長いほうがアンクレットというのが分かった。私それ、一度もしたことなくて、恥かしいけど、ストッキングの上にするか下にするかもどっちか自信なかったのよ。それでよほど検索しようかとも思ったけど、蝶の飾りがぶら下がっているのを見て、そういえば、他人がつけているときそういうのが足首のところで揺れているのを思い出した。それでその飾りがどっち側になるかも迷わなかった。こういうの、最初ガーターベルトをするときもそうだけど、自分でやった経験がないと案外確実には知らないものね。」
私の想像の中でほぼ絵里のファッション、いや、彼女が目指したエルザが完成したことになる。
もっとも、いくつか細部で気になるところはある。
白いブラウスに黒いブラは透けていないのか。
レザーのミニのほんとうの長さは?
化粧のようすは?
ところで普段つけている指輪はどこに?
とりあえず先を急ぐためにそれらの疑問は置いたまま「それで準備完了」 と訊くと、「そうね、小物を詰め替えて、あとは化粧をいつものようにしたんだけど、ちょっとそこでまたポカがあったのね。」
「ポカ?」
「急いでたからいつもの出勤のようにさっさか化粧して、口紅を塗ろうと思って、指定されたのを塗らないといけないと思って塗り始めてから気づいたんだけど、そのシャネルの真っ赤なルージュ、顔全体のメークとちぐはぐだったのね。しかも上に革のジャケットも着ることを考えたら。耳のクリップとはそれほどアンバランスじゃなかったんだけど。だけど、眼から何から直さないといけないとなると、とても間に合わないし…最初にちょっとでも塗って確かめてみなかったのが間違いなんだけどね。何か応急措置を考えようと思ったけど、あと5分くらいしかなくて、別にもう一つしないといけないことかあるのに気がついて、そこでちょっとパニックって、化粧のことはもういいや、勘弁してという気分になったの。」
「別のことって。」
「脱ぎちらかした他の服と、下着類。さっさと試すことしか考えてなかったから。適当に椅子の上に脱ぎ散らかしてあっただけなの。小野寺さんって私の服とか下着とか、ハンガーに掛けたり、畳んだりすることに変に几帳面なところがあって、プレイの後とか、私がほうけている間にいつのまにきちんと整頓してくれていたりするんだけど、さすがに、ここでストッキングとか蛇のような状態にして出って行って、二人で戻ってきたときこれじゃあね…と思ったの。」
「…」
完璧でない化粧のまま会いに行くのと、着るものを脱ぎ散らかして出かけてきたのを見られるのを比べて、後者をより恥かしいという捉え方は、なるほどそれが女心というものかと思った。
全部をとりあえず整頓し終ったところで、ぎりぎり17:10だった。
「で、電話した。」
「そう。秒針までぴったりにね。」
「で?」
「いつもと違う人みたいでちょっと怖かった。あいさつもなしに、いきなり、『名前は決まりましたか?』って。それにすごくよそよそしい口調。」
「で何と答えたの。」
「『エルザです』って。」
「それだけ?」
「それだけ。」
「で?」
「部屋番号を教えてくれて、あとはタクシーを回すからとか、2回目のメールにあったようなことを事務的にそのまま。小野寺さんは先に入っているのかどうか訊こうとしたんだけど、言いかけようとしたとき、『では後で』って言って、もう電話切れてた…」